光明寺設計物語【2017.03.19~】地図、発見。

役所を巡り調査し、道路や上水下水の図面を得る。
googleの地図は眺めても居るし、敷地図面はある。
現状を知る地図情報は既に得てはいるものの、
興味深いのは図書館で得た古い地図だった。
音更の図書館を訪ね、相談をさせて頂いた。
何かしら古い地図はないものだろうか?と、
直接的に。するととても好意的に様々を探して
下さり、見せて頂く事が出来た。
感謝です。本当にありがとうございました。
直接的に設計に影響はしないものの、敷地を
理解する上では影響は絶大、知らなければ、
今には至らなかった発見に出会えました。

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これは明治43年の古い地図、音更を中心にした写し。
帯広、新得、士幌が載る十勝全域の古地図となる。
北海道は入植を前提に土地を区分する測量を元に、
碁盤の目に仕切られている。その区分の距離は、
当時の測量技術により、540mが基本となっている。
これは嘗て別地域を調べた際に得た情報。
屯田兵なり、入植以前は原始林が広がる地域、
冬場でも歩くのは困難だったはず。故に測量は
川筋から始まる。船で寄せ、湿地をさけて基準点を
個々に決めて測量をする。より多く効率的に区分が
出来るように方位を定めたと思われる。

大きな河川は氾濫もあるだろうし、高台も低地も
河川敷の具合もあるだろうに、暴力的に高低差を
無視して無理やり区分されたのが最初なのだろうか。


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帯広から士幌への鉄道が走っている。
明治43年の地図とは川筋が違っている。

先の無理やりの区分から一転している。
川筋毎に測量を改められたのかもしれない。
それらを拡張すると角度の違う方眼が出会い、
歪な接点を作りながら全域に及ぶ、その様が
よくわかる古地図だ。
十勝川のような大きな河川で大別されるものの、
音更の名の所以らしき川の多い場所、確かに
川筋毎に方眼の方位が目まぐるしく変わる。

松浦武四郎ならどう区分したのかな?

基準点を決めた人の名は見たことがない。
誰かが決めたのだ。今に繋がる道路の位置を。
何かしらのルールや気配りもあったかもしれない。
けれど、今眺めると思いつきで決めたかの様だ。

経済的に今は価値が見出される場所も、
北海道においては沿岸のそもそも平坦な場所の
無い場所や古くから開拓されていた場所、
函館や小樽、室蘭のような場所を除けば、
札幌も旭川も帯広も、同じスケールで区分される。
その大区画をどう小分けに分割して町が発展して
きたのかは個々に歴史が物語るものの、
何の事はない、誰かが思いつきで決めたかも
しれないそれが基準になっている、のだ。

と、一気に知識をひけらかしてみたものの、
当初の区分に足してかなり違う区分が在る。
その経緯を明かす事は出来なかったものの、
実況に応じて開拓時以降に再区分を果たした
のかもしれない。これが今に繋がる基本だ。

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これは敷地近辺の地図。これが発見だった。
帯広から北に真っ直ぐに伸びる国道・・・
実は音更川の河川敷にあり、これが音更川
沿って蛇行して伸びていた。これと当時の
区分けが交差し、角度のある区分となる。
直行せずに微妙な角度に振られているのだ。
一様には見えず、どこか印象的に見える景色、
これはこの振れた角度が齎すものと知る。

開拓入植時に区分された場所は、国道となる
主たる道沿いでは細分化が進み、何かしらの
町並み、商店街なのかを築き上げた様子だ。
この展開は日本の街道沿いの展開と同等だろう。
長屋の様に別けられ、敷地の短辺が主たる道に
面している。この中に、今の敷地がある。
・・・ちょっと驚きの事実があった。

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直接的な影響はないのだけれど、これは帯広の
都市計画図、明治26年頃の古地図らしい。
地図ではなく計画図か。西暦1893年に相当する。

西欧でも現代的な都市計画を考え出した頃か?
これを誰がどういう経緯で計画したのかは不明。
元々の無理やりに区分した方眼を前にして、
新しい都市形成を魅力的にすべく、中心を据え、
そこから45度の角度を持って道を作り、
一体的で現代的な都市開発を目論んだのか!?

・・・今後の発展を期して、上司に無理を
強いられた若手が、困り果てて諸事例を探し、
西欧の幾何学的構成を見て学び、やっつけた
だけの図面なのかもしれない。

・・・もちろん、名は無くともより崇高な
都市像を描いた人が描いたものかもしれない。
そこに言及した文章は見つけられなかった。
どこかにあるのかな?

実現は極一部、帯広は駅の南側、東側にある。
あの斜めに走る道路は今もなかなか慣れない。
見知らぬ人を迷子にさせる謎の道だ。
【MoAi in ny】の敷地に駅東側からアプローチ
する際はしばしば迷子にさせられたし。



建築設計ではしばしば「コンテクスト」という
言葉を使う。敷地だけを眺める設計は基本だろう。
その敷地だけを空白の白地で考えると設計は楽だ。
白いので自由に取り組める。ただ、結果そういう
設計が横並びに町並みを構成した結果、連続性を
失い今の日本的な町並み風景が作られてゆく。
バラバラだけれど、均質に区分された敷地故に、
全体には目くるめく様に展開される今の町並み。

ただ、何故今の敷地がこの形状であるのかを知れば、
もう少し俯瞰して眺める事も出来る。例えば、
この機会のような調査で得た知識は有益だと思う。
実際に設計をするのは限定された敷地のみとして、
けれどもその謂れまでも理解すれば、場をつなぐ
切欠を創れるかもしれないし、利用する事も出来る
かもしれない。使えたなら、限られた敷地に囚われ、
小さくまとまらずに、もっと大きく町並みに作用する
建築を考える事が出来るかもしれない。

個々の建築で何かを果たそうとするよりも、もっと
大きな都市的なスケールから建築を考える事が出来る、
かもしれない。お寺は、このお寺も戦後にここを
選んで始まったとしも、当時は何かしら多くの人々の
心の拠り所であった事に違いはない。
そういう存在が小さく敷地内に留まるよりも、
地域に対して開かれた存在であるためには?
などと言うことを肯定的に考える事が出来る機会を
この機会に得る事が出来た。これは発見、収穫。


地図との出会いは何時か書きたいと思い温めていた。
気持ちが逸り、読み難くクドイ文章しか書けていない。
ただ、書けた事はちょっと嬉しい。