東山魁夷『唐招提寺御影堂障壁画展』を訪ねる。

あまり天候の優れぬ連休の最中、自転車にのって近代美術館を訪ねた。東山魁夷は・・・良くは知らない。出会えば「なるほど」と思うものの、改めて眺めるとそれは確かに凄かった。素晴らしいではなく、凄いと感じさせられた。

襖絵で良いのだろうか?展示は圧巻であった。襖のみならず、付柱や鴨居、梁を再現し壁面が展示される。青を使う画に合わせた照明が秀逸だった。実際はどのような「光」の元で眺めるのだろう?人工照明はなく、障子越しの自然光で眺めるのだろうか?だとすればどの様に見えるのだろう?場所を特定される絵とは「光」が固定される事を意味にする。その光の元でどのように見せるのか?画家にとっては悩ましい条件に違いない。

展示では青が何とも妙に浮き上がる風の、下方から全体を浮き上がらせる具合の照明が備えられていて、それが効果的に印象を素晴らしく仕立てていた。プロジェクトマッピングなのか、何かの映像を見せられているかの様で不思議な世界を目の当たりに出来る。基本は長野県信濃王美術館所蔵のもの、この美術館の照明を再現しているのかもしれない。

絵画ならキャンバスの大きさで表記されるものが襖となればスケールが違ってくる。正に建築スケールで展開されると途端に実空間を意識させられてしまう。圧巻だったのは、下図、割出図、試作の展示だった。恐らくは通常、対象は白いキャンバス等に違いない。しかし、相手が建築の場合は大きさと領域が限定される。それが襖なら框もあるだろうし、違い棚など様々を考慮しなければならない。何より、人の居る建築室内の一部になる以上、『空間』を意識しなければならない。絵画なら建築を背景に飾られる所を、建築と共に背景となる必要がある。しかも、鑑賞のための照明を得ずに。

 

中国や国内での取材スケッチ、これを元に構想し試作、建築図面に落とし込み、それが20分の1、5分の1とスケールを上げて修練されて行く。実際は展示以外にもっとエスキースがあるのだと思う。波模様が各々で違っていたりした。そう思うと、一体どれほどの仕事量を費やしたのだろうか?建築を作るようにエスキースを重ね実施図面的試作を作成した後に実作業、施工図的下図に升目を切って採寸する割出図、後に実際に描く作業がある。そして、仕上がった襖なりを実際に建築に収める。その成果に画家的成果が求められる。建築設計はどうあれ、その建築を使う人、住まう人の背景である事を考えるものの、建築が主役となる事を前提として芸術性を達成するのだから、建築設計に似てもう一段階上の成果を求める作業を垣間見る事が出来、非常に興味深い体験が出来た。

・・・雨降るのかな?大丈夫かな?などと空模様と相談しつつ、訪ねたのは閉館前の事だったのだけれど、案外、良い選択だったと思う。人気もあるのだろうし連休は流石に混んでいた美術館、けれど閉館前は展示最初のスペースは人も少なく、しばらく唯一人で向き合う静かな時間を得る事が出来た。障壁に包まれる空間のスケールを実体験しながら思索出来たのは幸いな事だった。


水墨も彩色も、ディテールは曖昧。詳細で緻密な絵画ではない。取材スケッチは様々で印象的なのだけれど、試行錯誤はあるらしく、ディテールの込み入り具合は様々だった。詳細なものもあれば水墨の濃淡のみで風景を描いて見せるものもあった。襖絵ではその多くは霧か朝靄なのかで霞むものが多く、描かない工夫が施されている。描かれない「間」は実際に感じる無の間であって、それが室内空間において実際に人に描かれた世界のスケールを感じさせる。この発想は凄い。現実には『無』の部位を良く見れば襖紙が見えるのだろうけれど、包まれると靄に消えてしまい、その靄の向こうの見えない世界を感じさせられてしまう。

 

しばらく一人で眺めた最初の展示の「濤声」は案外に静かで、どこか高みから眺める波間の光景、きっと吹く風に周囲の音が遮られた様に思う。黒々とした岩山が二つ、右手から押し寄せる二つの波があり、左手側面の浜に打ち上げられている。悩ましいのはそもそも、これを要した居室がどのように使われる事を意図した空間だったのか、だろうか。