お盆を終えた日の夕暮れ、鈍く輝く。

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「鈍く輝いている。」と住職から写真が届いた。写真を使わせて頂く。
 ” 鈍く ” という表現を実現するのは非常に難しい。これは ” 金 ” の最も得意とする輝き。けれど、その金を輝かせるには ” 陰影 " が必要になる。陰を帯びる空間の中の僅かな ” 光 ” を金は拾う事が出来る。すると、この写真の様な荘厳な光景を目の当たりに出来る。

初めてのお盆を無事に終えられたのだと思う。最終日を終え、消灯しただろう際に見つけただろう鈍く輝く様を私に知らせて下さった。住職もまた、本堂の御本尊を前にきっと心新たにされたに違いない。このシーンは私にとっても特別なものに見える。自然光のみで達成された光りの空間。阿弥陀様は通常、内陣と呼ばれる欄間や折戸の奥の薄暗い間に在る。このお寺の本堂は明瞭な内陣を作らず、外陣と呼ばれる人の集う広間と一緒になっている。ただし、『光』には拘った。内陣を闇の間とせず、逆に光の間とした。それが写真の両脇の障子の明かり。金が鈍く輝きだすだけ十分に自然光が少ない状況でも、北側の採光窓を利用する内陣の障子の明るさが保たれている。そして、その明かりの元で金が鈍く輝いた。

言葉で書くととても難しい。これは実際に見れば、何を言っているのか感覚的に理解できてしまうだろうと思う。自分も建築見学では常にそうだったので。設計者としては、これを実現させる事は至極難題。照明を頼らずに作るのだから、その難易度は計り知れない。今こうして写真を自分ではない他者から頂き安堵が出来るのだけれど、これを再現して欲しい等と言われても、とても確約の出来るものではない。そういう事があればきっとまた、頭を抱えて悩んで過ごすのだと思う。

望んでいた一つのシーンを住職から報告頂けた事はとても嬉しい。

暗に築かれる内陣を、明で築いたこの内陣、それが鈍く輝いた。『御本尊が喜んでいるはずです。』と、後の電話でお聞きした。お疲れ様。初めてのお盆を無事に終えられたぞ。

お盆は、行事として催しがあるわけでなく、門徒様が参拝に数多く訪ね来られる。お聞きすれば、子や孫なのか多くをお連れされ、中には何度も参拝に見えらる方もあったとか。普段は目にしない方々かも多く声を掛けて頂いたのだそうだ。お寺の様を見て「思い切りましたね!」とも言われたとか。


多くは納骨堂を訪ねられる。多くのお寺では、納骨堂を訪ね納骨壇をお参りして去る具合だろう。光明寺は本堂が中心にあり、訪ねると必ず御本尊とお会いする。その奥にある納骨堂もロッカールーム形式ではなく健やかだ。落成法要の際に、子供が一人でふら~と散策に出掛けられるくらいに健やか。御家族が納骨堂でたむろもされていた。結果、ここで肝試しは出来そうにはないけれど、自分が子供だったなら、あの長い納骨堂まで連なる廊下を走るだろうな。読経は本堂で行ったらしい。住職の御本尊への思いは強く、お寺の在り様を思い、読経を本堂で勤めたとお聞きした。設計当初から望まれていた事を実践されている。納骨壇の前か、或いは納骨堂の阿弥陀様の前でが普通なのだと思う。それが本堂の御本尊の前でとなれば、訪ね来られた門徒様も特別な思いに違いない。だって、あまりに贅沢。贅沢という言葉は適当ではないかもしれないけれど、お盆の最中の貴重な時間を可能な限り有意義にしてくれる事を疑えない。

門徒様は自分のお寺なのだし、訪ね来られた方々皆様が喜んでいたとお聞きした。そう信じたい。特殊なデザインではなく、けれど普通のお寺とは程遠く、辿り着く本堂や納骨堂は他に類が無く、根本的に異なる空間で達成したお寺になる。懸命に取り組み、甲斐を感じている。



陰影に支えられる。これは特別な思いがある。谷崎潤一郎の陰影礼賛は文章が美しく、持ち出す本に困れば決まって携え眺めている。描かれる陰影の世界はあまりに魅力的な陰に満ちている。空間が描かれるのだけれど、実践するには明るさを欠く。自分はそもそも自然の光の乏しい中で明るさを作り出した北欧の建築に感銘を受けている。実際に見聞した光りの建築は真似の出来るものではなく、その場に相応しい光りを求める設計の中でこれまで探し続けて来た。人の成してきた建築空間の光は、母校の恩師、尊敬する先生方に示唆されていたもので、その基本を今も求めて悩んでいる。住宅の設計では必ず住宅毎に最も良い環境を探すのが私の設計の基本にある。・・・あまりに光りを語るので、オーナーの多くは住い始めてからしばしば見つけた光を教えて下さる。自分の住まう空間に光りを見つける行為は実に健やかだ。どんなに高価な仕様よりも遥かに贅沢な事なのだから。お寺の取り組みでも、明るさは大切にした。重厚で重々しく荘厳さを求めたとしても、光明寺には相応しいとは考えなかった。帯広駅から昼間でも15分掛からない場所、国道に面して交通の便の良い場所、コンビニの様に便利に使えてしまうお寺は身上でもある。ただし、便利だけれど、目に入れば壮観に見える工夫があり、境内に入れば包まれる具合を計画し、室内に至り目的の空間までの動線は光明で導く仕組みが備えられている。その核心たる本堂の様は、夕暮れの消灯時に空間の核心たる陰影が隠されていた。写真のシーンを眺める機会は、寺族の方以外は私しか、見ることはないかもしれないけれど、谷崎の陰影礼賛で描かれる美しい空間世界を、まさか健やかに宿しているとは!・・・かもしれない。これは訪ね体で感じるべきもの。

出来て日常として使われている事がとても嬉しい。