【 2020.07.15 】

【 2020.07.15 】せないけいこ展について記した。貼り絵ではなく重ね絵或いは彫刻的なレリーフだった。それが紙の薄さの中で表現されていた。あの薄い世界なのに順序を間違うと違和感を覚える。腕を組む人の交差して前後する様を表現しなければ、腕を組む事すら難しい。空間のセオリーがある。免れられる事はない真実の空間を実感させられる。設計においては、例えばどれ程高価な壁を作っても配慮の無いドア枠が設けられれば、順序の先端がドア枠となる時点で高価な壁はその次になってしまう。人の目はそれを容易に見抜く。見透かされてしまう甘い設計をしてしまえば、気付かれた以降は訪ねる事が出来ないよ。なので、見透かされた時にこそ、なるほどと感じて頂ける建築を心掛けている。その為に設計図には示し、予算を獲得し、現場で格闘し、成果を得てきた。気付かれた後にお会いする時に初めて、オーナーへ伝える事が出来る。

宮本武蔵も書いた・・・無精故の散髪話ですが。案外、髪を切る事については遡ると直ぐに分からなくなる。庶民の生活において重要事だったはずなのに、200年前がどうだったのかも良くわからない。時代劇で見る風景は特別に整えられた世界であって、当時現実には違ったに違いない。人を頼れずに自分で整えていた人は居たはずで、毎朝は反り上げる際に広がって行く人も必ず居たのだと思う。突き詰めたらな、一冊程度の本は書けそうに思う。私の観点では喜劇になるかもしれないけれど、宮本武蔵を喜劇に表現する方がリアルかなー
・・・これが実は設計と無縁とは思えない。日常の生活空間における出来事、ある住宅のオーナーは散髪風景の写真を送ってくれた事がある。ドマで切りました!と。様々な場所、描かれる理想ではない現実の生活の風景を許容出来る建築はより望ましい。