本:シュレーダー邸

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絶版のこの本は、最初に手にし建築書籍の一冊だ。先日はいつもの本の行商が撮り直された新刊を手に訪ねて来た。購入はしなかったものの、写真をしげしげと見比べさせて頂いた。当時から「保存」されいたので変わりない様子がとても嬉しい。

抽象画家のモンドリアンの『リンゴの木』に相当するのがこの建築になるのだと思う。1924年竣工なのでまもなく築100年になる。

建築史試験で私は建築史の勉強不要であった。特に欧州の建築は実際に観にっている。大学時代に知り学んだ建築は自身の設計基準、それが実際にどうなのか?確かめる必要を強く観に行った。

スポンジが水を勢いよく吸う様に、まるで無の絶乾状態の頃は何にでも反応したのだと思う。何を学んだのを知りたくて学生時代は日本をあちこち旅をした。流行りの建築を見てガッカリした事は数知れない。初見の情報の多くは写真になる。綺麗な写真は少なくはないものの、多くは綺麗に撮られたものに過ぎず実際の印象とはまるで違っていた。対して、写真では「何だろう?」というものは見応えのあるものが多かった。そこで学んだのはつまり、『空間は写真には写らない。』事。これが学生時代最大の収穫だったのだと思う。よって、欧州まで建築を観に行く選択をする。

ちなみに、先日の日曜美術館、次の日曜夜8時に再放送の回は「白井晟一」になる。これは必見のもの。写真では理解が到底及ばぬ建築で、実際にあの空間を体験出来たのは成果だった。九州まで訪ねたのは大学3年の春、あまりにインパクトが強過ぎ、そこから逃れるのに相当な苦労を強いられもした。


この本はオランダはユトレヒトの郊外の住宅街の端、高架路の縁にある。写真では情景は良く分からず、対象のみが写る。それが大きいのか小さいのかも不明だ。克明な写真にも関わらず、何だろう?という疑問しか抱けなかったのに、文章では記念碑的建築と称えられている。信じるのか、自分で確かめるのか、選択の分岐は強烈だった。

私は自分で確かめる選択をする。欧州への建築旅では必ず行くべき建築で、モダニズム建築か或いはマッスを解体して再構築する現代的な建築までを網羅してし、立地する敷地を活かし、何よりそこに住まう人を想い設計された稀有な建築だった。遥か昔の話にはなるのだけれど。


シェーンメーカース博士が唱えた宇宙の想像図こそが具象世界を抽象世界へ置き換えるルールで、水平垂直や赤、青、黄色に意味を持たせ説いていた。これを体現しようと論を発したのがファン・ドゥースブルフで、そこで起きた芸術のムーブメントが『デ・スティル』になる。設計者のリートフェルトも画家のモンドリアンも参加した20世紀初頭のもの、後のバウハウスへの影響はドイツ表現派より強いのではないかとすら思える。

オランダのサッカーの如く明快で攻撃的、システムとしての高みを魅せ疑わせる事無く系統させられてしまう。理念や理想の新鮮さとは別に、完成は別に委ねる具合にも見える。何だかとても潔くてとても好みだ。

リートフェルトシュレーダー邸を知らない建築家は無い。誰しもが必ず一度は通る道なので。ただ、理解をしている人は稀になるように思う。実際に観なければ理解の糸口を得るのも難しい。私にとっては、例えばフィンランドはセイナヨキにあるアアルト設計の図書館、イタリアはベローナにあるスカルパ設計のカステルヴェッキオ美術館・・・と並び、多くを学んだ建築だ。

リートフェルトは家具も有名で、「レッドアンドブルーチェア」はMoMAの永久展示品になっていたはず。公式販売元はカッシーナで超高価な家具、ジェネリック製品では安価に手に入る。2枚の板で体を支えるシェーズロングは、デザインは素晴らしい。疑念は心地よいのかどうか?になる。ユトレヒトの美術館のロビーの椅子は当時は全てがリートフェルトのもので、そこで初めて座った。あれ?良い。と。根を張れる心地だった。世の中は広い。可能性は様々にある。諦めずに探せば、見つけられるかもしれない。優先順位を間違えずに求め続ける勇気、その象徴かな。

傑作は往々にして完成形ではない。可能性の提示が出来るか否かに価値があるように思う。人のニーズが移ろうのだから、それは当然の事だ。受け継がれる何かは実に生物的で臨機応変に環境に応える事に違いない。

つい、忘れがちな初心を新にする本との出会いでした。この時に購入したのは別の本でした。