東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画

先日の事、何気に眺めた美術番組は長きに渡る修繕を終えた唐招提寺唐招提寺?御影堂?ではあったものの広間の光景を見て熱く思い出してしまう。

3年程前に北海道の近代美術館で眺めた東山魁夷の障壁が映されていた。この空間のために描かれたものだったのかと改めて知る。この障壁画展はとても印象的で忘れ難い。閉館際に順路を遡り、ギリギリまで粘ったのはこの図録集の表紙の絵のある大きな広間だった。貸し切りの様な状態でしばらく眺める事が出来たのだけれど、風を感じ、波音が聞こえたように記憶してしまっているくらいの臨場感に満ちるものだった。

襖絵ではなく、精密さを問うのでなく、絵としての完成さでもなく、空間がデザインされていた。障壁を通じ現実空間を越えて更に遠くへ広がる空間だった。

映像では襖を開けてその奥の間が見えたり、動的に展開していたものだから実に興味深かった。実際に体験すればどう感じるだろう?海の間が突如として滝の間に移り変わる。それは劇的な体験に違いない。

霧に霞んでおぼろ気な風景など、『距離感』に特に興味を抱いたと思う。目の当たりにしているのに遠く霞む光景は不思議で、包まれると臨場感を強く感じる秘密に思えた。
奥行き感を創るなら?空間は何が支配するのだろう?改めて様々に想像が駆け巡る。


実際の建築において、一面に絵を描く事は経験が無い。実の所、想像した事もない。芸術的で高価な設えになるだろう。けれど、奥行きを設える工夫は欠かさない。そこは建築言語を使う。平面である絵画でそれが出来るとは、素晴らしい驚き。それが実際には襖一つでまるで違う世界があるのだから、映画の中に紛れ込んだかのようだろう。

襖は都合よく空間を閉じるのだけれど開ける事も出来る建築部位だ。これを理解し最大限の取り組みが成された「障壁画」。


建築で奥行きを作るには平面ではなく立体的に取り組む。一般的には室内空間は閉ざされてしまう。床壁天井で明瞭に四隅が決められ明瞭に閉ざされてしまう。どれ程に大きな空間でも四隅が決められると閉鎖空間になってしまう。伸びる様に広がり空間に解放感を導き世界を創るのか?おおいなテーマに違いない。

東山魁夷を語りながら自分の設計を語りだすのは無謀かもしれないが。
佛願寺の設計は、そういう深淵な奥深さを何とか創りたいと願った。現実にはコストの壁は厚く許される余地は狭い。その中で極めて難しい事に取り組んだ。それまで住宅でも様々試みていたけれど、純粋に没頭出来たのは阿弥陀様を置くと決めたからだったと思う。出来るだけ目線を低く訪ねて来た人と親しく在りたいとし、けれど十分に距離のある節度も生み出したいと考えた。


写真は、実際には明るい空間なのでそれは以前に記事で。用いる壁は薄く、自然光を幾重にも重ね、手の届く範囲にも拘らず奥深い世界を築けたと思う。自分自身でも、手が届かない深淵?を思ってしまう。全て既知で明らかでも、阿弥陀様は手が届きそうで届かぬ存在として凛として居る。


・・・京都大阪なら足早に歩いてしまいそうだけれど、奈良へお寺や仏像を見る旅へ出たい。