桜のプチ名所?らしい中島公園で桜を脇に自然を楽しんでしまう。


桜は綺麗だ。白の世界がグレーに切り替わり、色の無い荒んだ風強い季節は暖かさを実感出来る事だけが救いで、そこに色付く様は確かに印象深い。

けれど、綺麗な花!とは思われない。暖かくなった瞬時に一気に子孫繁栄のために虫?を呼び寄せる為に無我夢中に咲き乱れるのはブクブクと太り巨大化する水芭蕉と同じで、どこか不気味だ。その瞬時に一気に開く事に全力なのは共感を覚える。

花弁を取り出し図案化されたビジョンは美化が過ぎるのかもしれない。空想の花に違いない。咲き乱れるには十分な暖も水も限られるので、むしろ非力ながらも全開の力業こそが桜の持ち味ではないだろうか。

ライバル不在の今なら、この程度の色味ですら華やか!その戦略の見事さと散り際の潔さが相まって心に響くのだろうと思う。

実の所、桜に洗練さはない。「儚さ」こそが魅力に違いない。けれど、青い空に淡い色は確かに響くなー。



中島公園の、豊平川から引かれた用水を利用した池の風景。この枝垂れる柳?の枝垂れた部分は謎だった。花に見える。極めて小さな粒の集合が水を得て重く育ち垂れるのみ。朝陽に透けるカーテンとなり、園内の橋を両側から覆う。序に風の少ない朝の池にも映えている。

雑多で鬱蒼なだけの春の勢いも、「陽を映える幕」となれば光を視覚化する貴重さは特別だ。実際、この橋を渡る時は光に包まれている気がしてしまう。



鮮やかで美しくデザインされた羽を纏うスズメが、そこらに居た。野山で出会えばおそらく「シジュウカラ」と呼ばれる鳥だと思う。

実に落ち着きなく動き回る身軽さで、小さく軽い事が身の上、止まる事がなく常に頭は地面を突く。枯葉の下に何かある様子だけれど私には見つけられない。手の届く範囲の直ぐ外を結界にして寄れば飛び去る。横跳びして近くの木の幹に横止まりして次へと飛ぶ。俊敏さではスズメを上回るのかもしれない。

何に夢中になっているのだろう?青葉少ない枯葉の春の草地、何が居るんだ!?



何が、どうなったのだろう?
何かの後に見える。桜の咲くもう少し前に、何かを果たしたに違いない。その刹那がこの木の最盛期で、この時は後に姿なのだと思う。垂れ下がる下にある黒い点々が「種」?なのだろうか。このままの姿で暫くあるようで、誰も気に留められる事無く乾燥が進めば黒い点々が落ち、そこから次世代への挑戦が始まるのだろうか。



朝の、そこそこ暗い森の中で陽を浴びて輝く綿状の物体、気の枝先に装ってみたけれど、何か違うなーという印象。デザイン上は正解には見えないけれど、この種のプライオリティは守り抜かれ、自分が見たのは優先順位の低い状態なのだろう。これだけを見れば「何で?」と思うのだけれど、少なくとも人間が想像出来る正解よりは遥かに優れた選択に違いない。



そこらの野鳥は慎ましく、寄ると恥ずかしがり立ち止まることなく去って行く。お邪魔して申し訳ない。



今年のPMFこそ、オーケストラのリハーサルを観に行きたい。叶うだろうか?毎年、そこだけは意地悪にも仕事で詰まる気がする。

安田侃さんの彫刻を撮りたかったのに、手前の細い枝に焦点するカメラの気遣いに腹を立てるべきか、感謝すべきか、わからない。



くちばしや足の形状、体のフォルムを見れば同種に違いなく、派手な羽がオスで擬態模様の右下がメスではないかと思う。おそらくは「カモ」だ。

池はそこそこ遠い。どこから集い歩いて来たのだろう?偶然ではなく、長々と一緒だったのでペアなのではと思う。仲が良いのか、悪童が集い冒険に挑んているのか、会話が聞こえたなら良いのに。

彼等もアスファルトの路面を歩くには不適そうな足だけれど歩き回り、脇の枯葉の下を突っつく事に見中だった。一体、何が在るのか居るのだろうか?



休日の早朝、人混みで埋まる前に「春」を実感したくカメラ散歩だった事を思い出し、桜を撮った。最早、次いでの仕事にみたいだ。

札幌の街建造のために作られた用水(創成川)、木材貯留地として造られた中島公園の、人工の野生は割と面白い。