ボケて光る。

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カメラにはF値といい取り込む光の量を調整する仕組みがある。大きなレンズを付けたカメラでレンズを覗けばその絞る機構が見える。羽が何枚も重なり、重なり具合を減らせば光を通す穴は大きくなり、重なりを増せば狭くなる。あの機構は如何にもカメラ的で魅力的だ。F値は光をどれだけ取り込むのかを決める値、それで開口の大きさが操作される。
F値が小さいと開口は大きくなり取り込む光の量が多くなる。逆にF値が大きくなると穴は小さくなり取り込む光の量は少なくなる。
取り込む光の量が多いと一気に必要な光量を獲得できるし、少ないと長く時間がかかる。
少なく時間を掛けて光を取り込むと、それは丁寧に光を取り込む事を意味し、隅々まで行き渡る様に出来、結果、写るのもの多くに十分に光届き鮮明に撮る事が出来る。
開口を大きく一気に光を取り込むと、「眩しい!」と目を閉じる瞬間に写った像の如く、ピントの合った所だけが印象的に見えるかもしれない。

・・・実に感覚的な、私の感想だけれど。

明るいレンズとはF値の小さいものを言い、これはとても高価だ。世の中、一瞬の印象の価値を大切にするらしい。実際は、建築を撮る時は絞る。F値を大きくする。開口を絞り小さくし、丁寧に光を取り込み隅々まで行き渡らせ、もれなく綺麗に撮れるように考える。でも、印象を撮る時には開放し、見たいところだけを見る。時にその方が印象的になる。

野山にカメラを持ち込む時は開放で撮りたくなる。風景を撮るなら絞るけれど、自分の載せているこんな写真の時は、見たいものだけ見たい。結果、見たくないものはボケて行く。光が行き渡らないので像を結ぶ事が出来ず、ボケる。その時、ボケる側に光があると不思議な事が起こる。太陽の陽、湖面に反射した光、照明に光、反射して輝く部位などがボケて写り込むと、光る玉の様に写る。

何を間違ったか、そのうちにその光る玉が撮りたくなってしまったりする。絞りすぎるとボケず光の玉は出ない。開放し過ぎると派手で汚かったりする。適度に開放だと綺麗な光の玉が写る。

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強い陽射しが湖面で反射し、結局は綺麗に撮れなかっただけなんだけれど、キラキラと綺麗だった。それだけは撮った自分は理解出来る。それだけの写真だ。

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そして、何を更に間違ったのか、ボケた光の中にその奥の何かが写りこみ、屈折の加減で距離がピントに寄ってきたのか、何か写っていたりする。こうなると、最早何を撮っているのか、わからなくなってくるな。

水滴を撮るのは面白い。ピントを合わせると水滴が撮れるのだけれど、観察すると、水滴がレンズになってその向こうの像が反射していて、その像にピントを合わせる事も出来る。草原の草に付いた水滴に反射して写りこんだ水滴の向こうにある草原を撮る事が出来る。何を言っているのかわからなくなるのだけれど、つまり、そういうわからないものも撮る事が出来る。そういう時はF値を絞るべきか開放するべきかも分からないので、とにかく、撮ってみる。たまに綺麗に撮れたりすると、また撮りたくなったりする。

最早撮っているのが『虚像』なのだから、何だか妙だ。