白滝の黒曜石。その⑤ 接合資料


『国宝』には、この【接合資料】も含まれるらしい。これが何か?知ると極めて驚く。不可能と思われる仕事の成果で、誰がどうして「これに取り組もう!」と言い出したのか?この成果へのストーリーはドキュメンタリーとして是非とも残して欲しい。

白い部分が石核、白滝から持ち去られた石器になる。残されるのは石隗を加工した際の破片になる。その破片を繋ぎ合わせて、元の石の塊を再現したのが【接合資料】だ。


これも接合資料になる。


接合前はこの有様、驚愕の残骸の山!これは遠軽埋蔵文化財センターの床の写真。白滝に確か生活痕はなく、黒曜石の採取加工の拠点工場だったと聞く。必要な黒曜石は持ち去れる、加工の際に出た破片や失敗作のみが残される。

発掘調査では山のように屑が集められるそうで、これを埋蔵文化財センターに持ち帰り調査をする事になるのだそうだ。基本はどうやら江別の埋蔵文化財センターで行われたそうだ。不可能と思われる接合資料は、実は土器と同じ事なのだそうだ。


土器が破棄される時は割れた時、発掘された時は破片しかない。焼き色や土の色、表層の質感等を頼りに組み合わせる事になる。そこら中に捨てたわけでなく、縄文の頃は場所を決めていた。そこに積もった破片を集めては区分し、そこから一つの土器に接合した資料がコレらになる。写真は江別の埋蔵文化財センター所蔵品。

黒曜石の接合資料では、石隗の表面が残る場合はジグソーパズルの外枠のように分かり易いらしい。割られて綺麗な表層状態での判別の極めて難しいともお聞きした。石の模様や色、技法所の破片の形状からコツコツと探す事になる。遠軽埋蔵文化財センターの床に敷き詰められた破片は区別出来ずに諦めた屑山なのだろう。

10年程前は予算がついたらしく、江別の埋蔵文化財センターでは100人前後の人が集まり、必死にこれに取り組んでいたそうだ。100人がかりでも、何一つ接合出来ずの日もあったとか。途方に暮れるとは正にこの事に違いない。


今も江別の埋蔵文化財センターには、この接合資料に取り組もう!と言い出した人が居るらしい。最初はおそらく、「何言ってるの?」と受け入れられなかったに違いない。けれど接合できるものを見つけてしまい、土器修復の技術を応用すれば「出来る!」と判断したのだろうな。実に見事な仕事だと思う。

北海度は樺太、千島列島、津軽海峡を渡り本州へと3方向の人の移動があった。日本の人類史を考えるなら、3万年程前から住んでいた人の確かな痕跡は『国宝』に違いなく、誰しもがわかる資料と出来た事が「価値」を得たのだと思う。