お隣の栗は不思議な縁から。


アトリエの窓から『栗』を眺めるのは日常の事、その育つスピードには驚かされ、その大きさで季節を実感する。暑さが続いた今年、けれど栗は大きくなっていて、暑さの中にも秋を感じさせた。

そういえば、この栗の木の由来をお聞きした事はなかった。次の機会のお尋ねしよう。栗はそもそも北海道には無かった木で人が植えたのが縄文時代の事、今でも未だ野山に自生している光景を見かけないように思う。

何時の事だったろうか窓からつい手を伸ばして数個を頂いた。ある日その事をお隣さんに失礼しましたと告白する。それから毎年、お裾分けを頂くようになる。

3階の窓から手の届く所で育つ栗、写真のように。

親しくしている二人の友人は、元のは仕事の関係だったのだけれど、彼等の父親とお隣さんが同僚?の関係である事がこの夏に発覚した。俄かに信じられずに居たのだけれど、先日は今年の栗のお裾分けを頂いた際にお聞きし確かめる事ができた。

まったく、不思議な縁があるものだと驚いた。もちろんお隣さんも、「はて?なぜ?貴方が!?」と目を丸くされていた。丸くと言うか、状況を把握出来ずに固まっていた気がする。その友人の父親に不幸があり、私からお伝えする機会となった事も何かの縁なのだと思う。

この春に訪ねたある建築が実は、そのお三方が若かりし頃に働いていた場所だったらしく、それは後に知るのだけれど、室内の今は倉庫のように整理されずの空間であったのにも関わらず妙に印象的だった。どこか凛とした筋の通った印象は、活躍していた頃の、そこに居た人達の想いが今も残っていたからなのではと思えてしまう。

人は何処に印象を覚えるのか?
覚えるのものだ。

仕事がらではあるけれど、期せずして何方かの御自宅や職場を訪ねる機会は多い。それが設計をという機会なら、その場で特徴なのか個性なのか、何かを即座に覚える。春に訪ねた場所にも、そういう何かを覚えたのだと思う。それが何かは分らないけれど、それが設計なら解き明かして活かすだけ十分な個性出会った事は間違いない。

その感覚が実生活の中で結びつく不思議な縁は、頂いた栗の味をより深めてしまったのだろうか、「今年は小さいの」と少し申し訳なさそうに頂いたのだけれど、やはり、美味しかった。