サヴォア邸


この建築を理解出来なければ建築家の道は諦めよう、そう悲壮な覚悟を持って挑み訪ねた建築の一つがこのサヴォア邸』だった。

訪ねたのは随分以前の初冬、パリ近郊の住宅やら学校のある閑静なポワシーの町を歩き芝生に迷い込んで出会う。一人で対峙し終日向き合うと覚悟していたのに、そこには近所の保育園児が散歩で来ていて、それはそれは大騒ぎであった。

何だよ?それ!日を改めるか?などと思いつつ、彼等が過ぎ去るのを待とうと外観をスケッチし始め、つい、彼等一行を描いてしまった。実は、その彼等には心から感謝している。

先輩から聞いていた番人の女性、おそらく間違いなく同じ人がエントランスには居て、入場料を払ったのだと思う。20世紀において最も有名な住宅は今も見学が可能だ。

保育園児が建物の中に消えてしばらく待ったものの室内へ、その室内で出会った光景は今も忘れられない。室内はエントランスホールに接してスロープと螺旋階段がある。彼等は・・・走り回っていたよ。正に『蜘蛛の子を散らす』とはこの事だと実感させられた。触れるのも畏れ多い名作建築にとうとう踏み入った私に、この建築をどう楽しめばよいのか?を完全に実践してしまっていたのだった。

一人で向き合っていたなら、近代建築の五原則やら知識に妨げられたに違いない。マニアックにディテールを眺め発見し悦に浸っただけで終えたかもしれない。そうではない。建築を見る重要さとは、体験する事に他ならない。どれほど綺麗でカッコ良く意味があったとしても、人の住まいは楽しくなければ嘘だと思う。

設計したル・コルビュジェさんが話す動画記録も見たけれど、案外に皮肉屋で当時は批評に曝されつつも耐え交し求めた人に見える。フランク・ロイド・ライトアメリカで景観を得て呼応する建築を設計した。ミース・ファン・デル・ローエは理想を求め突き進んだ。コルビュジェは中でも声高に理想を語りつつも実は実感を求めた人に、私には見える。

当時得た技術で可能な建築空間を如何に使うかを実践した一人、その成果は揺ぎ無く語られるのに、実はその「楽しさ」を語るのを目にした事がない。サヴォア邸で鬼ごっこかかくれんぼをしたらさぞ、楽しいに違いない事を保育園児の集団が目の前で実践してくれた。流石に今は、走り回る事は禁じられていたりするのだろうか?寧ろ、パフォーマンスとして定期的に行っていて欲しいとすら思う。



私の設計した住宅には回遊できるプランは多い。狭小の【 MoAi in ny 】ですら上下階を通じて想像できない経路がある。【 Bookshelf 】の引き渡しのイベントは『シメタ(かくれんぼ+鬼ごっこ)』であった。「何言ってるの?けれど設計者の要望だし、仕方ないな・・・だったのに、施工者も交えて結局は誰しもが汗を流して本気で隠れ、走った。

住宅は子供が楽しめるのが良い。建築、空間の素質を知るには子供を放すのが最適なのかもしれない。子等が退屈してしまうなら、どれ程カッコ良く映える建築であったもそれは、正直に言えば窮屈で退屈過ぎる。

家にいる時くらいは落ち着きたいし、そこに楽しさが溢れていて欲しい。限られた空間には違いなく、それが歓喜に満ちる空間だったなら?これ以上はない。

という100年前の住宅はパリ中心市街からは1時間程の距離にある事が分かった。実に便利な世の中、WEB上でチケットも購入できてしまう。朝9時に出掛けて眺めたなら、昼は市内でランチを楽しめる。

あれ?私は昼飯をどうしたのだろう?大小様々に何枚もスケッチをして過ごし夕刻を迎えたと記憶している。何せ一日をこの住宅のために時間を作って訪ねたのだし。希望はやはり、少なくとも今も保育園児の散策コースで今もあって欲しいし。序に訪問時間も記して欲しい。

サヴォワ邸?あれは楽しい住宅だよ!と言えるのが何よりなのではないかと思う。


サヴォア邸については同じことを過去に書いているのだけれど、まぁ良い。実際には建築家的に述べる事も出来るのだけれど、それは自分が理解していれば良い事で『実感』の方が大切なのではと思う。同じコルビュジェ設計のロンシャンの教会やラ・トゥーレット修道院にしてもやはり、宗教建築である神聖さが素晴らしいものの、どこかヒューマンな心を備える建築で「楽しさ」を大切にしていたのではと思う。

ちなみにミースの建築にしても子供じみた探求の成果にも見え、必死に端正にディテールまで整えたにも関わらず、シュトットガルトのバイセンホフジードルンクの集合住宅は今も人が住んでいて、それが実は窮屈そうではなく案外に普通の日常がある様に見えた。面白いには、決して映える空間ではないだろうなと言う事。写真や動画では計れないし、多くは嘘になる。確かめるには自分自身で感じるしかない。