木造建築

大学時代の同級生が数名、札幌で建築設計に携わっている。設計を志望して入る人も多い建築学科、けれど早々に設計に進む人間は絞られるので付き合いは長い。切磋琢磨した時間を共有して居る事もあり、再会が突然であったり久しぶりであっても互いに知っているので遠慮は不要だし、今を伝えあえる関係があるのは、とても嬉しい。

私は地道に小さなスケールから建築を始めた。多くの友人は大きな事務所で設計をスタートさせている。住宅メーカーなら特化されてしまうけれど、基本的にどのような建築も設計が出来る友人ばかりだ。私自身の携わった最大規模の設計は6000㎡程だけれど、彼等は何万㎡規模を平然と設計してきている。逆に、私は物置サイズも真剣に設計してきているけれど、そういうスケールを扱う友人は先ず居ない。

難しいのは構造。小規模の建築は「木造」が多い。大規模で設計するなら鉄骨造(S造)や鉄筋コンクリート造(RC造)、鉄骨コンクリート造(SRC造)など大きな構造体を扱うのが主となる。木造とは一線が引かれる。木造は細かなスケールで何とでも出来る可能性がある故に、実はとても難しい設計が出来る。町の工務店や大工さんが建てられる構造は経験値がものを言うし正攻法で理解するには柔軟過ぎる事もあり難解に違いない。

数年前に同じ研究室の先輩から連絡があり、木造を教えてくれと訪ねてこられた事があった。勘所を教えてくれと。半日くらい努めてみたものの、それが困難だった。

私は住宅の設計が好きだし、これまでの経験もあるし、より正確に現場や職人と接するべくディテール、納まりの詳細も絵にして今に至る。今は実際に現場で職人へ「どうしたいか」を伝えて現場を監理している。それって実は大変に難しく誰でも出来る事ではないのだと思う。実際、仕上をこうしたいとは言えても職人に「出来ない」と言わせない打ち合わせの出来る建築家は殆ど見た事もない。自分が本当に困ったときに相談の出来る設計の友人は極限られる。重要な事に、そのディテールの創り方は自分自身で探すべき事なので、人に聞いても参考にはなっても使えない。だから、自分も訪ねられれば自分のディテールを見せる事は出来るけれど教える事は出来ない。図面やスケッチを渡しても良いのだけれど、それが勝手に独り歩きしてしまうリスクは正直怖い。

こう仕立てたい!と考えても現場が違えば現場代理人も職人も違うので、その都度新しい納まりを考える必要があるし、同じディテールが使えるとは限らない。結果、今は木造を手足の様に扱えると、よりもっと大きな可能性があるのだけれど、今の自分の設計では何とか出来るかな?と考えている。まぁ、いつも挑戦している事に変わりはないけれど。結果、標準的な木造を設計してきていない。木造の基本を踏まえて常にギリギリを攻め、攻めて得た余地を更に攻めを繰り返してきた結果、自分の設計を人に紹介をすると、実に特殊な設計である事を自覚する事になる。


コスト制約から木造を選択しなければならなくなった友人が、木造がわからないと訪ねてきた。友人とは実に有難いのだと思う。根本から話す機会は、自分が何をしてきたかを改めて認識する事になり、とても有意義だった。


あれこれ用意された疑問に答えてみたものの、きっとのらりくらいに見えたに違いない。デザインを優先し無駄を許容する設計など稀、まず有り得ない。合理性や経済性、効率は当然考えるのだけれど、木造において何に注視すべきか、これが実に難しい。世間一般の木造建築は、その殆ど全てが住宅だと思う。その住宅の殆ど全てが標準的な建築に落ち着く。法で指定された最小小径の木の柱の最大高さで階高を決め、木造モジュールで〇帖の部屋をと言う設計の範囲なら、後は壁の量・・・地震や風に耐える壁の長さや配置のバランスを整えるだけで構造計算不要の設計が出来る。それが一般住宅。実際、細かく間仕切られるので壁は不足しないだろう。これをオープンな空間、吹き抜けのある空間で設計し始めると、とたんに木造も難しくなる。法の制限の範囲で計算なく設計出来る仕様規定に則るなら容易だけれど、そこから外れる設計は難解。しかし小規模木造の構造は設計者に委ねられるので、間違えば小規模でも仕様規定から外れる事もある。建築が一体としてどう動くのか?予想を超える際は最低でも構造設計の助言を頂くようにしているし、判別が付かない場合は法的に構造設計を要求されない規模でも構造設計を使い、今は設計をしている。

大きな空間を、小さな断面の梁をピッチを狭めて架構して行くか、大きな断面の梁をピッチを広げて架構してゆくか、選択肢はあるものの求めるのは『空間』に他ならない。

結局、私は設計の際は「どういう空間を導き創造するか?」を常に優先している。想像が出来れば創造の余地が生まれ、必要な構造を想定する事が出来る。そのためには何度も検討をするし、応える事の出来るデザインを諦めずに徹底して探す。

特に難しのはプロポーションだと思う。所謂、「スケール感覚」の事。数か月前に書いただろうか。人に例えると、モデルさんのような整ったプロポーションの建築は大変に得難い。柱の最小寸法で使える最大高さを許容してはズボラな姿に成る。肥満に近い。設計も施工もより安全側になるのだけれど、美しくはない。プロポーションの良い人は、街を歩いていてもふと目に留まる。綺麗だなーと。設計のスタートラインは先ずそこに求める。身に纏う衣服や化粧は表層のデザイン、これはコスト次第という側面があるけれど、コストを掛けずともで洗練させる事は出来る。これが私の思う「ローコスト」。安普請ではない。無駄を削ぎ落し求めるプロポーションは本当に得難い。柱小径から最大高さの・・・と言う一般木造建築は、そもそもプロポーションが悪いので、その後にコストを掛けて衣服や化粧を整えてもカッコ良くする事は不可能だ。誤魔化せないカッコ悪さが際立つ事になる。質素な佇まいでもプロポーションが優れるなら人目を惹く事が出来る。建築でそれを求める作業の過酷さは伝え難い。mm単位で変更修正を何度も重ねて断面を決めて行くスタイルは、今の私の設計だ。スケッチで予想し、実際に線を当て検証し、少しでも違和感が残れば新ためて繰り返し、その違和感を感じないまで洗練を重ねて行く。誰かに教わる事も出来ないし、誰かに伝える事も出来ない真理。ただ、その過程をお見せする事は出来る。何が行われたかを知らせる事は出来るかもしれない。5mm気に食わなくて、そこから果てしなく悩みぬく事も通常なので、設計はとても気長だ。その5mmを許せば実際の建築に如実に表れる。誰も気が付かなくとも自分自身がその甘えた様を許せない事は知っている。そんな建築を設計したくない。もしも設計してしまったら、二度と訪ねたいと思わないだろう。自分の甘さを痛感させられる現実に出会いたくないだろうし。幸運にもそういう設計をしてはいない。これまで自分の携わった建築は、今も訪ねるのはとても楽しみだ。

プロポーションの話は今年はあれこれ考える事の多かった序盤にたくさん書いていたみたいだ。既にもう4月か。

目的の主たる空間があるとする。そこはきっとその建築の中で特に大きな印象的な空間を求める事になる。そこに至るまでに幾つもの空間を経る事になる。通りから眺める建築、辿り着くアプローチ、玄関、ホール、廊下、前室・・・これをどう構成させると元tも印象的に目的の空間に至れるのか、そのシークエンスを考察し、経験する空間の様々を物語に出来るなら素敵だ。突然、主たる空間に至る事はないのだし。躙り口効果も過去に記しているけれど、小さな空間もその手前がより小さなものなら大きく見える。絶対的な大きさを把握出来るのは訓練された人のみ、一般の普通の人は常に相対的に空間を感じる。感じるからこそ心地よく感じたり、好んだり、楽しんだり出来る。その心象に応えられなければ良い設計とは言えないと思う。インスタ映えすれば良いだけなら、なんて容易な事か。インスタ映えしないのに実際に訪ねたら印象的だった、という方が遥かに難しい。実際、写真では写せずという建築にこそ素晴らしい建築が多い。実空間のある、リアルな体験は嘘をつかない。いくら煌びやかに施しても誤魔化しは出来ない。



・・・と言う具合に設計議論に進んだこともあり、素直に煙に巻いたかな、今日は。



最後に直近の設計、実施設計図書と監理時の図面やスケッチを製本をお見せした。実施図面は厚さが約3cmだ。監理時のものも同じ(ただしプレカット図、建具・家具施工図は除く)。現場で職人と話が出来る程の、実寸スケールを想定した図版でもあり、彼は相当な衝撃を受けていた。これは彼にだから見せられるもの。ここまでは出来ないと弱音を吐いて帰って行ったけれど、元々センスの良い人なので、どうせノラリクラリと何とかするのではないかと期待している。次に会う際に私を避けずにさらりと報告してくるんだろうなーと思う。社会に出てからの方が遥かに長い時間を過ごしているのに、互いに認め合う経験があるにも関わらず、関係は学生の頃と変わらない不思議、私が彼に最低限のプレッシャーを与えられたならと思う。次はプレッシャーを受ける番だと願う。まぁ、頑張れよ。