光明寺設計物語【2017.05.31】事例見学

お寺の記念事業として、建築が計画される。
私の設計契約は住職となる。建築後、落慶を期に
世代交代が予定されており、将来を背負う若住職が
事業の中心となり、また設計の打合せを頂いた。

私を訪ねる前に、様々勉強をされており、この日は
興味ある事例として札幌は篠路のお寺を案内頂いた。

お寺建築の中心はやはり、御本尊の在る本堂と思う。
その本堂をどう処すか?これは特に悩ましく思う。
伝統的な「お寺」、宮大工の造る建築は荘厳で、
畏怖のある存在。それだけでお寺と誰しもがわかる。
ただ、問題はコストだろうか。あまりにも高価だ。
同時に現代では様々な解釈もあり、事例も多い。

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写真は白井晟一による善照寺と言い60年前の建築。
白井は私が学生の頃既に古く過去の人でもあった。
日本の近代建築の礎となる作品を数多く残している。
そして、それが面白い。当時の建築家作品は面白い。
線が、今ならCADで描いた真っ直ぐの直線になる。
当時は手描きの歪みのある線であるように思う。
直線かと思えば端から眺めると柔らかく歪んでいる。
それがとても印象的な光景を成していたりする。
感じる事の出来る建築は数多く、けれど昨今は既に
失われたものも多い。

2015年に東北は名取市で住宅を設計した後に東京へ
遠征し、この時は新しいものと古典的名作とを眺めた。
基本、どこかへ行く時は建築を見に行く。
その際に訪ねたのがこのお寺だった。

姿形を真似る事は出来る。でも、それに意味はない。
流行を真似れば流行に乗れるかもしれないけれど。
空間は必ず体感しなければ知る事が出来ない。
写真では知識を増やせても体感する事は不可能だ。
だから、建築は見に行く。そして感じる。
これは昔から誰しもが設計の道を求める際は逃れる
事が出来ない現実だ。先行く建築を見聞し、そこから
何を見出し学ぶ事が出来るのか?常に試される。

失われる建築が多ければ貴重な機会も失われる。
見たいと思う建築が既に無いという事が現実にある。
自分の設計での引き出しは、これまで見て来た建築、
実践してきた建築、思考を深めた経験に拠るだろう。

感じ入る建築は、形態の真似では手に出来ない。
何が感じ入る様となったのかを解き明かす必要がある。
それは、誰も教える事の出来ない感覚で、自ら探す
ことで初めて得られるものだ。

自分にとっては、それは「光」であり、「大きさ」
スケール感覚であり、「質感」テクスチャーとなる。
分析的には論じる事も出来るのだけれど、分類する
行為は基本的な学問なのだけれど、それを超えて
得られる喜びは何一つ手引きがない。
例えば、何が良い光か?これを解き明かせる人は
この世に居ない。誰一人として証明が出来ない。
大学の先生も説明は不可能なのだ。それが建築。

だから、面白い。解けないけれど確実に在る実感。
それを求める行為は諦めたくなる絶望の縁にあり、
そこから勇んで飛び込むしか得る術がない。

一般に今は住宅では南側に大きな窓を欲しがられる。
その傾向はとても強い。「光」が、南側に大きな
窓を設けるだけで満たされるのなら、余りに楽だ。
それで良しとされる方は多いものの、実際は、
もっと面白い事があるのだ。それを知らせたい。

先日、10年以上前に設計に携わった住宅のオーナーが
設計時に熱く語っていた私の目の色の話をして下さった。
実に恥ずかしくはあるものの、何か間違った事を
話した事はなく、それは今も変わりなく。
技術も経験も今はより精密になっているけれど、
基本は間違いない。

・・・話を戻す。
お寺の本堂、私にはかなり最初からイメージがあった。
先のエスキース終盤の、より具体的なスケッチでは
それを意図して描いていた。

この機会に見学させて頂いたお寺の本堂は、伝統的な
形式を周到しつつ、思うように創られていた。
そういう事例を見る機会は貴重、有意義でした。