空間の節度【 museo di castelvecchio 】 19.04.28追記。

f:id:N-Tanabe:20190427043132j:plain

カステルベッキオ美術館とは、イタリアの建築家カルロ・スカルパの設計による美術館で、イタリアはロミオとジュリエットの町、ベローナにある。私がロミオとジュリエットの町だと知ったのは後の事だったけれどね。

学生時代、大学2年の頃、私はとても親しくさせて頂いていた大学院2年目の先輩の卒論の手伝いをさせて頂いた。彼の研究がカルロ・スカルパだった。卒業の後にフランシス・ダル・コォと言い、スカルパ研究の第一人者の講演を、その先輩と聞きに言った事がある。通訳の言葉の不明点を補って頂く特典付きで。

自分自身も興味ある設計者で、何かに迷った際には、これは今もなのだけれど、所持する本は穴が開くほど眺め過ごしてもいる。

f:id:N-Tanabe:20190427043127j:plain

スケッチは随分前に訪ねた時のもの。自分のスケッチや写真は、自分が分かる事が前提なので、人に見せる事は全く考えてはいない。なので、時々ブログにも載せはするものの、何かしら伝わるのだろうか?とは思う。としても、自分の考察を書いているので、そこはそれで良い、と信じつつ。

カステルベッキオ美術館は、そもそもは古いお城で、改修して美術館として今も見る事の出来る建築物となっている。私にとっては10指に入る傑作建築だ。そう思うに値する根拠とは、他に類を見ない「空間の節度」にある。ああも見事に時間を対比し調停してしまう眼前の建築の凄さを、体感せずには居られない空間を他には知らない。

 

f:id:N-Tanabe:20190427044417j:plain

その主たる展示室はアーチの連なる空間。アーチの小口から、壁の厚さが尋常ではない事がわかる。組積造の石つくり、アーチ一つにもここまでの厚みが必要だったのだろう。空間の節度を作るには、空間が何によって出来ているのか、創るのかを弁える必要がある。古い既存のお城に対し、床面は改修建築時に新規に設けられている。その上に彫刻等の美術品が展示されている。「古いお城」「今そこに人が立つ新しい床(を含む改修部分)」「美術品」の大きくは3点に分類出来る。それらを混じり濁さずに、節度を持って空間に仕立てる様が素晴らしい。

彫刻等美術品は必ず一つ何かを介して展示される。写真では、床から切り離され浮くように設えられた展示台に乗っている。小さなものは鋼性の台座を用いられ、どこにも繋がらずに浮いて切り離される事により、自立した存在として見る事が出来る。一般の美術館なら、直接床または床に置かれた台座に載るか、壁に掛けられているだろうか。節度ある距離を保てぬ場合は額縁が必要になるし、場合によってはロープを張って閲覧者から距離を確保して美術品を守る事になる。同じ間に居る事の危険を避けるための、そういう操作は野暮であり、節度の無い空間のダルさが鑑賞を邪魔してしまう。

この美術館は、古いお城建築そのものも美術品でもある。

f:id:N-Tanabe:20190427044455j:plain
アーチのある壁は古く、お城の跡だ。彫刻やレリーフ等の美術品はどこに接する事無く距離を置いて展示されている。そして、自分が立っているのは新しく作られた床だ。

f:id:N-Tanabe:20190427044508j:plain

丸印が肝になる。古い壁と床とは接していない。これが非常に重要な空間の節度を生み出している。古い壁と自が今立つ床が直接に接してしまうと、今いる時分の時間の中にある自分の側、今ある時間の側に、古い建築が引き込まれて節度を失ってしまう。

もう少し、自分に文章力があるなら適切に伝えられるのに。

これはしかし、実際に訪ねて感じる意外に理解は出来ない「空間」に違いない。自身が感じる自分の体重を支える床は、どうあれ現実の俗のもの。対して古い建築は時間上は明らかに古い存在。通常はその古さも今在るものになってしまうのだけれど、その古い建築の壁と今自分の立つ新しい床を切り離す事ができれば何が起こるか?これが実は非常に楽しい。それはまるで、古い空間にタイムスリップして自分が古い時間を訪ねたかのような感覚を覚えてしまう。さらにそこに、そのどちらにも属さない美術品があり、俗に引き込まず別の次元に浮いているかの様な汚れぬ芸術に対面する事が許される。

空間の妙、その凄さを感じる事の出来る美術館。

「空間の節度」ある建築が、まさかタイムスリップを疑似体験させる程の凄さがあるとは、この時に初めて知ったのであった。どう眺め感じてみても、今の時間に在って時間を共有するとは感じられなかったのは本音だ。

イタリアの、古い世界の残る場所故にたどり着いた建築像の違いない。今の自分の設計においては、このような事例には出会ってはいない。そういう設計の機会に出会えば、きっと相当に悩んで取り組むだろうと思われ、その困難を思えば興味は尽きず、その仕事はきっと楽しい以外にないだろう経験を生むのだと思う。



この「空間の節度」は実は、日常の建築でも意識せずに取り組んでいる。

f:id:N-Tanabe:20190427051527j:plain

スカルパの建築を紹介した先に自分の設計事例を載せる冒険を許容して考察を深めて見る。これは10年前にデザインした住宅、そのエントランス。写真左手は車庫になっている。エントランスとは一間になっている。間違うと、車庫を通り抜けて家に入る事になる。それはそれで「便利」だけれど空間の節度は失われ裏口から入るかの如くで俗的な現実に呑み込まれてしまう。それはとても残念な事だ。

この住宅では、人の出入りはこのアプローチを使う。車庫部分とは木ルーバーで仕切り、人の歩く場所は化粧砂利の中に置かれた敷石を伝い、ポーチにたどり着く。ここで一つ言及すると、節度保ち洗練を求めるとそれは「機能的」と言えるかもしれない。「便利」を追求すると節度は壊れ分別が失われてしまう。自宅に帰る、入る際にあっても、外の日常から自分自身の住まいを守るためにも、俗から切り離す仕組みは節度守るためにも欲しい。この仕組みだけで、今も訪ねる際はちょっと嬉しくなってしまう。家に入る前のルーチンが、特別な印象を抱かせる。

そういう仕組みに価値を置けるのかは人に拠る。一般には「便利」に価値があると思われていて、失ったもの、節度が定量化出来るわけでなく、そこに気付かずに済んでしまうのかもしれない。わかる人にしかわからない、そういう類かもしれない。

f:id:N-Tanabe:20190427053221j:plain

「便利」を求めると、おそらくは家の前はアスファルトで覆ってしまうかもしれない。すると、道路、歩道という俗世間と家は連続してしまい、区分、文節が出来ずに俗世間を家の中まで引きずってしまう事になる。出来るなら、自分のプライバシーある住環境に、俗を持ち込まずに節度ある空間である方が望ましいと思う。その方が楽しさの自由を得られるはずだ。車一台分のアプローチであっても、節度ある仕組みを作るなら、公共の道から切り離す仕組みが欠かせない。この住宅は今は、アプローチの敷石周囲は草木が茂り、より素晴らしい仕組みに育っている。一間を潜る事で辿り付く家、その室内は俗世間から切り離されたオーナーの世界を繰り広げる事が出来る。


タイムスリップすら、建築空間は感じさせる事が出来る。仕組みは様々あるものの、空間に節度ある設計は、常に当然に考える自分のスタイルになっている。

f:id:N-Tanabe:20190716021145j:plain

もう一つ事例を追加すると、これは先日ブログに載せたお寺の内陣の風景。中央の阿弥陀様の両袖の、掛軸のあるスペースは「余間」と呼ばれる。
f:id:N-Tanabe:20190428034537j:plain

これは旧お寺の内陣の余間。一般的なお寺はこの様な設えになっている。壁は金色で、それが蝋燭の炎に照らされ浮かび、御浄土を見せる。ただ、蛍光灯に照らされると金色は金キラして幻滅させられるだろうか。伝統的、新様式問わず、お寺の内陣で御浄土を表現するには金を使う事は多いだろうと思う。本当に金を使うか、金色の素材を使うかはあるけれど、御浄土という概念的な世界を創り見せるには適当で、その陰影の様は奥深く感じ入るものがある。

f:id:N-Tanabe:20190428034541j:plain
白い壁に光線を当て「光」を見せる工夫はある。当初はそれを目論んでいたものの、金を使わずに御浄土を表現出来ないか?に取り組んだ設計だった。欄間や柱、建具で仕切られた内陣の薄暗い室があれば表現できるところ、明瞭な仕切りの無い内陣を考えると薄暗くは出来ず、蝋燭の炎で照らされ浮き上がる金色の世界表現が難しく、金キラしてしまう。

載せた写真はBeforeとAfter。配置している仏具は大体同じ。光で御浄土を表している。光は直視すれば眩しいだけで、観察出来る光というのはなかなか得がたい。白い壁に光線を当て光を感じさせるのは一つの方法になる。ここでは、和の世界を借りて障子を使っている。裏からの配光は、昼間は自然光を使い、夜は人工照明を使う。障子戸を行灯にしているわけだけれど、この障子戸を直接壁床天井に接する事無く設置している。

壁床に接してしまうと、そこで現実世界と繋がり交わり、鈍くなってしまう。あくまでも御浄土を表したく、使った光が奥に在り、遠くから届き照らされている様にしたかった。障子は壁床から切り離され浮く様に設置した。結果、光も外陣から連なる床壁から切り離されて節度をもって輝く事が出来たと思う。

加えるなら、余間は旧お寺然り一般には建築の壁が刳り貫かれて設えられている。ここでは床から天井までの光を背にし、台座は別に設けた。木製でも良かったのだけれど、それは無骨に成らざるを得ず、光を良く通す様に薄く小さな断面で出来るスチール製とした・・・凝りに凝ったディテールで造るにはコストは足りず、部品点数と加工箇所数を最小限にして出来る範囲のデザインに落ち着いたけれど、それでも、効果的なデザインに出来たと思う。天板もスチールの台座から切り離して薄く出来たし。ローコストで造りえた造詣なのだけれど、この余間の在り方にはとても気を使った。何か間違えば直ぐに現実味を帯びて俗世界に落ちて来てしまうので、可能な限り徹底して俗的現実から切り離した。金はやはり魅惑的な素材なのだけれど、それも光あって輝くもの。光そのものを建築に加えられれば、お寺の様な特殊な建築において別世界の表現も出来るのではという挑戦において、「節度」を保つ事が基本スタンスにあったと思う。誤魔化さずに混じらずに壊さずに光を得る。節度ある設えは清潔感があり、眺めて心地良い。

この余間は昼間の自然光の時も適当に見えていた。次に訪ねた際は改めて確認をしたい。空間は、特に自然光を使う建築は、人工照明で作る商店建築のような擬似的な空間ならいざ知らず、こちらの都合など意に介さずに現実を突き付けて来る。創造を具現にするには自分自身が建築に対して誠実に節度ある様に取り組まなくてはと思う。