相原求一朗展を訪ねる。

自転車、昨年はパンクを理由に殆ど乗らずじまいであった。ので、反省して少し前に手を入れてみた・・・仏式バルブの根元が上手く嵌っていなかっただけの事だった。タイヤ外してチューブを取り出しあれこれしたのに、でもまぁ、無事に復活。春先はいつも嬉しく、つい走り回ってしまい膝を痛め、という事を何年か経験をしているので、今年は実に慎重な走り初めとなった。頑張らず、ゆっくり走り、人がいれば自転車を降りて押して交わす。暖かい日だったので心地良く、フラフラ脇道にそれてはあれこれ眺め走る。

今日の目的地は北海道近代美術館。中札内は随分前に訪ねたけれど、その時はこれほど感じては居なかった。昨年、テレビは日曜美術館で眺めた際に、妙に真っ直ぐに突き刺さる想いが残っていて、ようやく行く事が出来たのが相原求一郎展。

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私の写真で例えるなら、こんな感じだろうか。青い空のない空が印象的な北海道の風景が実に印象的だった。雨降る直前か、直後の晴れているのに暗い空が画面を占めていた。見つけた稜線の向こうの薄く長い光線のある風景等はロマン派のターナーを思わせた。自分の住む場所にターナーの光!・・・これは強烈な発見であった。

分厚く塗り重ねた黒い油、その表面を磨くように仕上げると屋根、ゴツゴツと仕上げると壁、それで家を書いてしまう。木々や草原もテクスチャーの質感で表現してしまう上に、その油の底に青を忍ばせて摩周湖の深さまでをも表現してしまう。なんだか、とっても面白かった。

「凄いなー」「凄いなー」と声に出てたので、私のそばで見てた人には変な人に思われたに違いない。まぁ、それも宜しい。もう一回行きたい、観たい、観たい。



私は何時しか、髪を切るのは理容院?を利用する。生粋の床屋はかっちりと切ってくれる。美容院だと柔らかすぎる。この表現、通じるだろうか?毎朝、どうしようもなく困るようになってから散髪を考える程度の頻度で、床屋的かっちりは向かず、美容院的柔らかさでは手に負えず、ほどほどの緩さと扱い易さを期待してしまう。設計では、クライアントに「要望を具体的に!」などと言ってみたりするものの、自分がいざクライアントとなって美容師?理容師?に注文する際は・・・実際のところ、何をどう注文して良いのか未だに見当も付かない。憧れる髪型でもあれば、写真でも携えるのだろうけれど、それは無茶かもしれないし、何とか似合う様に、何とか、何とかしてくれる人を探す。頭を委ねた人は実はこれまで数人しか居ない。それまでお任せをしていた人が故郷に帰られ自分のお店を持たれたの期に路頭を彷徨い、幾人かに切ってもらったもののピンと来る人には出会えず、今お願いしている人に出会えてどうにかなっている。信頼できる人のある在り難さ。が、彼はこの春に友人と独立ということで現在は準備期間中。

私の注文は、「春なのですっきりと。」とか、「夏なので涼しげに」とか、「人に会うので清潔感あるように」とか、そんな具合。美容師さんも大変だ。私もいつか、そういう要望を設計で形に出来ればなーと思う。髪はまた伸びるので切れば良いけれど、建築は唯の一回の可能性は高く、間違える事は出来ないので慎重になるのが当然なのですが。冗談はさておき、種別は違うものの、誰かの要望に応える職種を自分の目で観察する事はとても有意義。髪はまた切れば良いとしても、彼らも選ばれる側、間違えば次はないかもしれない。私の拙い表現をどのように形にされるのかは実に興味深い。

で、今お願いしている人は個人事業主が集う形式のお店に今は間借りされていたので、今日、切って頂く事が出来た。美容院として店舗を構えるのではなく、個人が集って店舗となる形式も今は案外に多いらしい。お店に雇われる場合、給料は高くは無いのだとか。カリスマ何とかなら別として、そういう存在は稀でしかなく、お店のオーナーは基本、お店にお客が来てくれる事を前提とする。個人の場合はその個人に来てくれる事が前提となる。お店にネームバリューがあれば、それで商売、経営は成り立つ。個人の場合、今が良くても先を見越せばどのように顧客を集めるのかは思案する事になる。

私がもう少し具体的な要望が出来るなら、どこででも誰でも良いのかもしれない。一般にはどうなのだろう?ともかく今は、もう何年ものお付き合いになる彼を逃しては再び路頭に迷う事なるので、逃さんぞ。もしも、私の髪が妙な時、それは私ではなく彼の責任である。


珈琲の好きな私は珈琲を飲みにも行く。大きなとある専門店、聞けばやはり、同じ問題があるらしい。常連さんはお店に付くのか、淹れてくれる人に付くのか。お店は誰が淹れても同じ味を提供しお店に付く事を期待する。誰でも良いという人も多いだろうけれど、彼彼女の珈琲が飲みたくて、という人は一定数必ずある。自分はそういう選び方を昔からしてしまっている。あるお店、本当に美味しい珈琲を淹れる方がいて好んでいたのだけれど、移られてからはその店舗、全てが変わったかのように違う場所になってしまい、私も行かなくなった。で、昨年、閉鎖となってしまった。
珈琲は違う場所も私は選んでいて、今はそこにのみ通う。もう10年くらいのお付き合いだろうか、淹れて欲しい人が2人程いる。同じ豆を使って自分で淹れても、最後一歩で全く別の味になってしまう。時々は人に淹れて頂き、ほう?っと美味しい珈琲を飲みたい。個人でされている珈琲店で良いところがなかなか見つけられない。

という事で、今日の自転車散歩は最後にそこで珈琲を頂いた。変わらず美味しく満足。

・・・どこで誰と出会ってみても、つい、自分の事のように置き換えてあれこれと考えてしまう。それはきっと、良い事なのだと思う。人に出会い初めて知る自分。今日は10km程を走ったようだ。日頃の運動不足、膝とは相談しつつ暖かくなってもきたので、少し外に出て見ようと思う。とりあえず、5/26までにもう一回、相原を観に行きたい。
後年の大作はインスタ栄えしそうな雰囲気、初期転換期か北海道の山岳を描く中期のものの迫力は見事であった。細部を見れば何の事か分からないのにタイトルを見て全体を見ればなるほどと実感出来てみたり、細部表現が具象でも構図は抽象的で見たいと思う核心が描かれていたり、その柔軟な視点と表現のバランス、絵は大きいので何にも知らず考えずに眺め、驚く楽しみは格別でした。