十勝での夕暮

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2年ほど前に月を撮った場所で、昨日は太陽を撮ってみたやはり、十勝から眺める大雪山系の山の高さは雄大で、一目見ただけで自分が何処に居るのかを思い知る。

来週には外構工事を含め残工事が一段落する音更のお寺の現場、晴れ渡る中での眺めは気持ちが良かった。お寺自体は既に運営が始まっていて、小さな法要に立ち会う事が出来た。丸一年は旧お寺に通い行事に数多く立ち合わせて頂いていたし、その際はカメラを持ってウロウロとしていたけれど、何方もとても好意的に接して下さった上にアレコレと教えて下さった。

昨日の法事はそんな門徒様のお一人方、片隅にお邪魔をさせて頂き、住職のお経を聞く事が出来た。使われている光景を見る事が出来、何が出来たのかを確かめる機会は特別な時間だった。

今は訪ねると、当然のようにそこに日常が繰り広げられている。それがとても不思議に思われ、まだ、私の方が馴染んでいない。工事は残るものの既に使い住まわれている建築にもかかわらず、まだ『自分の現場』という意識から脱し切れていないらしい。

庫裡に引っ越されて一ヶ月、引越しの翌日は大騒ぎだったスペースは少しばかり落ち着きを見せつつも、忙しい新学期を迎えていて整理よりも強制的に日常を送る風でもあり、そんな中で新しい環境での生活スタイルが築かれている様子だった。嬉しかったのは、若坊守が自慢げにキッチンまわりを案内下さった事。かなり唐突な訪問であったので備えて待っていたわけでなく日常を見せて頂いただろうに。私は設計者なので来客ではない。また、完全なる業者というわけでもない。来客には見せないものを、業者には話さない事を聞く人になる。そこでの使われ方は私の想像を超えるものがあり、それがまた極めて効率的でしかも、楽しいものだったのが嬉しい。クライアントがオーナーとなり得た今に共感出来る存在に違いなく、自分は素直にその様を関心して眺め聞いてしまった。ありがとう!
・・・もちろん、出来た事、出来なかった事も様々お聞きできる機会でもあって様々を鑑みる時間でもあった。

これまでの旧お寺では、訪ねると庫裡に招かれ坊守にお茶を御馳走になるのが常であった。その時間が愛おしく思え、取り壊し直前、たしか、役所を巡った後で直帰せずに電話をし、「お茶を頂けませんか?」と訪ねた事を思い出した。これが最後かと思ったのだけれど、結局、今も継続出来る嬉しさは計れない。昨日も一々挨拶して帰ると伝えてからお茶に招かれ長居をしてしまった。なので、本当はもう少し明るい時間にこの道を通るはずだったのだけれど夕方になっていた。