ネコ 【光明寺】

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「おやおや、ココかい?」・・・と言う具合だろうか?
突然の事で、馴染まない気配はあり不安そうではあるけれど、どうか居座って欲しい。ダルマさんが転んだの舞台となる、お寺のエントランスホールに置かれた大きな置時計、その横の隙間だ。




正直を言えば、私のデスク上の一角にも隙間はあり、数ヵ月もそこに鎮座させられるものもある。時々「何でココに?」と目が合う具合。所定の場所のあるものは速やかにと思うものの、中には居所のないものもある。どうしよう?

手を伸ばせば届く位置にコンベックス(メジャー)があるし、電卓やカッターマット、付箋にUSBジャック・・・機能的ではあるけれど、散らかった状態と紙一重だ。それに慣れてしまうとつい、巣化してしまう。人を招いた際に「これは、だらしないな!」と気が付くのは恥ずかしい。慣れは怖い。

元々は何も置かずの後ろの本棚カウンターは象徴的で、並ぶ本の長さが1.2mを越えた。唯一置いていた事務所の電話は本に追いやられ、当初は左に振り向き左手で取っていたのに、今は右に振り向き右手で、椅子も動かし手を伸ばす。電話位置の変化が時間経過を物語る。



・・・ではあるものの、設計の際は実地にて観察させて頂き、自分の事は当然ながら棚上の奥に隠した上で、あれこれを思う。後に私も理解し見失い勝ちになってしまうので、初見の印象はとても重要だ。

設計する空間の生活感をどこまで許すか?何時も大きな問いになる。竣工写真が綺麗なら良し!という設計は世に少なくない。実際に訪ねて驚く事も実は多い。どこまで許すのか?という問いへの設計はあらゆるシチュエーションを想定して、納得できるまでクライアントと一緒に考える。

それでも、しばしば、私は強要するかもしれない。15年前に設計した住宅を訪ねると、私の顔を見て特に奥様は、どう?と言う具合ではある。既に何も言葉は無く自然体で素敵だなーと眺めています。寧ろ、私の隙間の方が怖くなってしまう。

「生活感」は住まう、使う上で好ましくも悪しくもなる。自分都合が優先過ぎると他者からは不快か不思議に見えるかもしれない。けれど、生活感の無い事が良いとは考えていない。自分の、自分達の場所に成れなければならないと思う。その様が素敵に見える工夫は、設計がお手伝いする事ができるはずだ。

ギリギリまで切り詰め住まえるクライアントもあれば、そこそこの余裕を残して変化を一緒に楽しませて頂けるクライアントもある。子供のある家族の住いなら、そもそも将来の変化は想像も出来ないのだし。その変化が楽しめるのが望ましいと思う。

音更で設計したお寺は既に時を進め始めている。旧お寺を観察させて頂いた際に感じた事は素直に述べ幾多のシミュレーションを重ね、清潔感のある佇まいを目指した。昨今の運用は極めて上品、そこまで出来るの?と無理されていないか不安に思える程。でも、それを楽しまれている様子でもあり、どうやらお寺で!というのではなく、ここで!という新しい取り組みが計画されているらしい。折角の自然光溢れる大きな空間、その可能性を活かし取り組まれるのはとても望ましい。楽しいだろうなーと思う。

空間の温もりは大切だ。クールでカッコ良いより遥かに重要だ。滲み出る生活感は印象を邪魔するだろう。そうではなく温もりに還元出来るなら楽しい。表情や和み、落ち着きが現れるのなら、それこそが案外に非日常になるのだと思う。

実は旧お寺には温もりが溢れていた。前坊守の心遣いには心から敬服していた。私が信頼を寄せる事が出来たのは、正にそこに在った事を疑えない。整理して、そこを失うなら本末転倒になる。価値は日常に宿る・・・私の事務所の電話の位置については心改めたい。


写真のネコ、実際に眺めたい。隙間が温もりで埋まるなら、それはきっと楽しいに違いない。設計の手を離れた後に訪ね思うのは、楽しいかな?が全てであるように思う。届いた写真の置きネコ、まだ目が泳いでいる気がする・・・つい、笑ってしまう。阿弥陀様とは違う目線で人を迎えてくれるなら、きっと楽しい。