建築写真

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建築写真は技術が要る。基本はカメラがあれば誰でも撮れるのだけれど、技術が要る。フィルムカメラでの撮影ではスライドフィルムが使われる。ネガではなくそのままを撮るスライドは特に難しく、それこそピンポイントで合わせる必要がある故に特別な一枚が撮れる。本当にシビアで電球色の照明の中に蛍光灯が混じると難しく、写真家によっては電球色の蛍光灯を用意して望む人も少なくない。所謂プロの建築写真では補助光を使い覆うように済ませる技術もあるものの、素直に見える写真を撮るのはとても難しい。

・・・そもそも、レンズが違う。一般には広角のレンズが要る。広角を使うと室内を広く撮る事が出来る。けれど、広角で広く撮ると多くが写る故に一々が小さく写り空虚にもなってしまう。しかも、広角レンズは周囲が歪み勝ちなので煽るように撮ると後で修復が出来ない事もある。扱いの難しいレンズです。

デジタルカメラは敷居を下げたのかもしれない。私でも撮れる。詳しく述べるなら技術の選択肢を増やした事に価値があるのだと思う。

 

Windowsならビットマップ、Macならピクトというフォーマットではなく、JPEGという圧縮形式の写真フォーマットはとても便利だ。圧縮率を調整出来る上に、低圧縮でも小さな容量で綺麗な写真を保存できる。今はスマホを含めこれが多勢だろう。ただ、デジタル写真はカメラ本体ではCCDなりCMOSなり受照装置の得た情報そのものを扱うRAWというデータもある。これは加工されていない生のデータ故に膨大な容量になる。今の私のカメラなら、JPEG一枚が10MB未満、多くは3MB程度に対し、RAWデータは一枚で40MB程度になる。

RAWデータは現像が必要になる。そのままでは像を結んでいない唯の情報の集合に過ぎない。これをフィルム時代の現像相当のパラメーター設定を経て一枚の写真に仕上げる事が出来る。色温度や諧調、コントラストや明るさなどをPhotoshopなどの画像加工ソフトを使う前に調整する事が出来る。画像加工ソフトは壊す作業になる。欲しい像を得るために何かを捨てる「壊す」加工。現像はその逆に「作る」作業であり、得る結果が近いとしても方向が間逆になる。どうせ手に入れるなら素の状態を最良に保ちたい。

デジタル処理の余地がある今なので私も撮る事が出来る。写真は学生時代から撮ってはいたもののプロの勉強をした事はなく、けれどデジタル加工については経験があり、選択肢がある今は使えるという意味で、私も撮れる。

肝心な事、これはフィルムかデジタルかは実は関係がなく、撮りたいものがあるのか否か。自分の設計は「こう在りたい」というものを設計する故に、それがあるのかどうかを確認するためにも写真を撮っている。どれ程加工しても、それが無ければ撮れない。結局はシビアな世界があるのだけれど、写真を撮る行為は一つの確認方法になっている。

一般的な建築写真は記録としてのもの。プロの、芸術的に撮る人の写真は綺麗に撮る。私の技術は・・・時間を費やし数打てば当たる的な方法。同じシーンも、粘り陽の動きや雲の加減で変化する最中に見せる一瞬を捉えられるだけ待てるなら、それが最良だと思う。どの様な建築でも綺麗に撮れるのではなく、綺麗なシーンを撮るだけの技術。・・・あれ?技術はないけれど撮れただけだと告白しているのだろうか。

10年ほど前に出会った東京在住のプロの建築写真家、今でも親しくさせて頂いていいる。時々、自分の設計を撮って頂き、ブログでも案内をしている。生意気な私にカチン!と来てケンケンガクカクでもあるのだけれど、「お前は綺麗に撮る」とやんわり認めてもくれていると思う。なので、年に一度はお会いするのだけれれど、その度に話は楽しい。作家としての写真は格別、光りを本当に綺麗に撮られる。その場で感じた光りそのものを撮られる。解像感では既にデジタルが上回ると思うのだけれど、スライドで撮って頂いた一枚は貴重、ふと眺めるとやはり、綺麗だ。とりあえず彼には免許皆伝と、飲んだ席では頂いている。・・・まぁ、大きな差が在る事に変わりないのだけれど、手本を示して下さるのが自分の設計した建築空間の光りなのだから、これ以上がない。

そういう光りを写せるのはカメラ、そもそも創りたいその光り、写真はまもなく落成を迎える音更の光明寺の納骨堂の一枚。手前には北側高窓があり実際にはここまで室内は暗くはない。建築竣工写真なら補助光を焚いて人の目が感じる明るさに整える必要がある。カメラは今のところ、RAWで現像すれば補助光を使わずとも近い印象にする事も出来るけれど現実にはまだ及ばない。AIでも搭載されれば劇的に変化するのだろうか、将来は。ただ、この一枚はとても印象的に撮る事が出来た。

これまで自分の携わった建築は自分でも撮っていて、住宅一つでも二日は撮り続け、室内の明かりを眺め過ごし、気に入ったものを載せている。実際の方が良い事に違いはないのだけれど、建築は宿命的に引き渡せば私のものではなくなってしまう。手元に残せるのは写真だけ。自分の創った光の空間が今はどうあるのか?時々オーナーが知らせてくれるのだけれど、それがとても嬉しい。