果てして、何を書いたのか? 自分でも分からない。

私は元々、一般に特別な存在よりも自身の興味を優先する性質らしい。それは設計においても有用で、特別だろう景観に恵まれた敷地を特別視はしないし、当然ながらマンション立地優良地も気にはしない。どのような敷地でも出会えるなら、その場所の最も良い場所を探す。探して、それをどう教授出来るかを考える。そこに住まうなら、その場の良さを活かしたい。社会的優良は実際に住まう上で良質とは限らない。

そういう性質なので、正直を言えば、そこらのタンポポでも観察するのが楽しい。そして、そこで出会う見知らぬ世界の美しさを実感せずにはいられない。

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これが特別でなくて何だろう?と思う。知ったつもりで居て実は何一つ知らないのだ。おしべの花粉に気付けば驚くし、花の中央を取り囲む花弁の律動を見れば、その生命感に感動すら覚える。・・・「律動」を使ってみたかった。

毎朝の日出の凄さも実感をする。

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何故こうも毎朝が劇的なのか、誰か説明をして欲しい。初日の出は毎日の出来事、どの一日も特別なのだ。

知人から写真が届いた。トンボの写真だった。名は?と問われ図鑑で調べたものの特定は出来なかった。多分、アキアカネ。トンボの飛ぶ季節になった。おそらくは最もメジャーな昆虫なのに、図鑑を見ても実物で観察してもおそらくは種の特定は素人では困難だ。オニヤンマの様なスターなら出来るとは思う。ヤンマはヤンマでもルリボシヤンマはお気に入りだ。あの美しいスタイルにファッションは素晴らしい。しかもあの眼、あれはズルい。けれど区分するとオオルリボシヤンマとルリボシヤンマがあり、区別は極めて難しい。

何に着目し、何を優先し、何に価値を見出すのか?

これはとても悩ましい問いになるのだと思う。自身の選択或いは判断は大切にしたいと誰しもが思うに違いない。誰しもが稀有や特別を手に入れられるわけではない。それを手に入れていたとしても理解が及ばずなら猫に何とかにしか過ぎない。区別する事、社会的な価値を信じる事に実は意味はない。それを信じて済ませられるのなら容易な人生に成り果ててしまう。やはり、何だろう?と知りたいという欲求を探求するのが楽しい。探し出し知る事が出来れば、それは本物に限りなく近い。何一つこの世には無駄がないのだから。

日本はニュートリノ分野の先駆者なのだそうだ。近年はその分野で二つのノーベル賞を受賞している。今は更に次に挑んでいるのだとか。カミオカンデという最初の受賞で活躍したとんでもない設備は今はスーパーカミオカンデで更にとんでもないのに、今は更にハイパーカミオカンデの建築が始まったと知った。次はウルトラかな?と思っていたので、更に続きもあるのかも。ニュートリノ反物質、半ニュートリノとの性質変化の比較が出来れば、対にならぬ孤高が存在する可能性があるのだそうた。物質と反物質は対となり生じた。そもそも、物質が生じるという事象が難解過ぎる。ビッグバーンが一体どれ程の衝撃だったのか、宇宙を膨らませてしまう程なので、近く出来る範囲を超える。対のそれらはやがて結びついて相殺し消えてしまうらしい。にも拘らず今、消えずに今は自分自身がある。何故消えずに存在するのか?無数に発生した対の中に、対にならずに生じたものがあるのかもしれない。その存在を証明できる可能性がニュートリノにあるのだそうだ。その証明には気の長い実験を続け、統計し、核心に迫る上でハイパーは活躍するだろうと期待されているらしい。それが実り事実を知る時が来ても、おそらくは私には理解を越えてしまう。越えてしまうけれど、イメージは共有できるのではと思う。想像性は大切だ。自分の知覚出来る世界が全てではないと知る事の重要性は楽しい。

自分の生活を眺めて見ても、特別な贅沢が特別になると言うわけでもない。むしろ日常の何気ない事にこそ特別を見いだせる。与えられる事に慣れてしまうと、見つけ出すのは難しくなり、社会的に経済的に政治的に価値ありとされるものに飛びつきたくなるに違いない。頼れば楽にはなれるけれど、自分の興味を探求する事は諦める事になるだろうと思う。

つまり、秋を感じるこの季節に目の前を飛翔するトンボがアキアカネでも、そうでは無かったとしても、トンボだ。区別できれば知る手掛かりになる可能性はあるけれど、図鑑的に言えば区別が出来るだけで彼等への理解が深まるわけではない。人の理解を知るだけだ。どこでどう生まれ過ごして成虫となり、どうして屋上で出会ってしまうのかな?一層の事、何も無く出会わぬのなら理解のままなのに、出会ってしまえば赤とんぼの詩も頭の中に流れてしまうし、秋空を軽快飛ぶ姿に焦がれてしまうし、不思議。夢希望やロマンのあるドラマに違いは無く、身近の直ぐ傍にあるのではと思う。設計は、その発見を促す作業かな?そこに価値を見いだせずとも最低限、必然を導く事は出来る。それが創造の仕事に違いない。

果たすべき仕事が遅々として進まずの夜更け、日は短くなり、豪雨予報もあり空は雲で覆われ未だ暗い、久しぶりの夜更かしに罪を感じないので、ふと書き出したのに、何を書いているのだろう?無駄にも思えるけれど、いつか正しい何かに出会えそうに思う。