『報恩講』の報が届く。【編集中】

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音更はお寺の住職より写真が届いた。さりげなく撮られた様にお聞きしたものの、上下左右傾き含めとても綺麗に撮られていて、それが恐らくは報恩講を終えた後の本堂は内陣の姿、とても素敵だった。

お寺には主たる空間となる『本堂』がある。本堂は人の集う「外陣」と阿弥陀様の納まる「内陣」とがある。内陣は尊く「御浄土」を具現する空間であり、人が訪れた際に自然と手を合わせてしまう空間と出来ているかが設計上最大の命題だった。伝統的な所謂「本堂」ではなく、新たに解釈をし私達の「御浄土」を具現すべく取り組んだ成果になる。伝統的になら、そこは薄暗く霞み消えるような、谷崎潤一郎の「陰影礼賛」に記された床の間のように隈に消える場になるに違いない。それを理解し築ける設計技術があれば、反転して『光』で包む事が出来ると取り組んだ。

語り出せば夜を明かせる。

2019年に竣工し、既に設計者の手を離れた建築は現オーナーの預かるもの、その今を伝えて頂ける事は何より嬉しい事。

報恩講』はお寺の年中行事の中で最大のもの、これを無事に執り行えるかどうかは門徒様一同にとって大きな出来事、無事に果たせば「今年は・・・」と語れるだけの行事になる。写真は、無事に果たされた後に清掃が成された後の姿だと思う。

建築は主役には成れないけれど、支える器として欠く事は出来ない。今年も無事に大役を果たせたのだという報に違いなく、胸をなでおろす。

不思議な内陣は、「光」を得て御浄土を成す。伝統的なお寺の本堂とは真逆の姿になる。佛具はフル装備で形式上は不足なく拡大解釈もなし。そろう全てが明らかで存在感を放ち満ち足りた場所であるように見える。これは、訪ねてみれば実感を得られるもの。


本当は、「設計者です。」という特権を使って遊びに行きたかった。初年度は遊びに行けたのに。報恩講とは実は、とても楽しい一時に違いなく、ああも人が集い皆が懸命に取り組むことである種の「楽しさ」に満ち溢れる機会もそう多くないと思う。お寺の行事なので、という使命感だけでは果たせない。皆が集う事で楽しい一時をという場で在る様に思う。旧寺では一年に渡り行事に参加させて頂き、出来るだけを観察させて頂いた。設計だからと言って、そこまでする設計者なんて居ないだろうなーと正直に思う。要望を聞けば設計を済ませられないわけではないのだし。でも、このお寺の!と想い、その個性を探すには知らぬわけには行かず、旧建築で行われた行事の最後の一年を観察させて頂いた。カメラを持ってウロウロする見知らぬコイツは誰だ!と思われたに違いないけれど、そこも設計者特権で遠慮なく必要な所は踏み込んで見せて頂き、多くの方に話を聞かせて頂いた。特に厨房は面白かった。お時といい食事の様や伝統的に漬けられている漬物など・・・これも語り出せばキリがないのだけれど、建築を新しくする際に、そこにあった「楽しさ」が損なわれぬ事は本堂の設え同様に優先順位の高い設計課題だった。報恩講を無事にという報はつまり、皆が楽しまれたという報に違いなく、そこが何よりも嬉しい。そして、そこに行けなかったのは心残り。

来年は・・・遊びに行きたい。何時頃まで「設計者特権」は許されるのか?これは悩ましいけれど、行けばとことこん今を見せて頂きたいと思う。そして、楽しい機会に陰ながら参加させて頂けたらなーと願う。