ナナカマド・・・に違いない。

暖かさを得て「水」を恣意的に作用させ、ライバル不在の地表で一早く生存競争を繰り広げる植生グループは、デザインの洗練さよりも『華やかさ』や『目立つ事』を優先する。

持てはやされる『桜』は抽象化した造形デザインでは素敵だけれど、実際は勢いばかりでグレーの世界に色付けるだけ、観察しようにも直ぐに散り去り、それが『美しい』などと都合が良過ぎる。

夏に本番を迎え、水枯れる秋に終える植生はライバル多数の最盛期に挑む強者達で、春の今時期には準備が進む。


・・・『ナナカマド!!』だ!と脳裏に浮かぶ。おそらく間違いはないけれど、間違っているかもしれない。ただ、葉の開く前は、これが何だか想像も出来ない。


暖に応じる勢いの植生とは違い、これから秋枯れるまでの半年を見据える植生は覚悟が違う。大気の水蒸気量を活かして水膨れするのではなく、確実にこの先半年の風雨に堪えるしっかりとした骨格を感じられる。これが何か?開くまでは未知なのだけれど、筋の通った鋭い集積具合は『予感』に満ちている。



何かの繊維を織り込んだ青さは一気に開く。

こういう光を映え透ける葉の構造は、朝の観察の特権だと思う。以前なら迷わずに通った西岡水源池で、それは何度も実感させられた。今は湿地の奥へ行けない遊歩道が設置され観る事が出来ない事が多く足が向かない。

まさか、散歩コースのココで眺められるとは!!灯台下暗し、何処にでも、そこら中に『春』があるのだと思い知る。



順光でみれば、立派な葉が広がる。



織り込まれた繊維は、繊維のみ故に鋭利で、水と暖を得て一気に開いた様が完成形になる。これが秋に紅葉して綺麗!に見える葉の、青々とした春の様。



先端に一枚、5枚が対となる11枚が一セットの繊維を下り重ねたものが、最初の一枚になる。まるで11枚で「一枚の大きな葉」となる様にデザインされている。それが枯れた枝先に冬場から用意されていて、「時」を待ち、何らかの「今!」を選択して一気に開く。

まだ青い幹も含めて用意されている。幹は徐々に強く硬く水と光合成養分の通り道となるのだろう。今は未だ柔らかい幹に元気に開いた葉、一切の欠けもなく奇麗だ。



朝陽に透かし観る、まだ枝葉の伸びきらないナナカマド。果たして、これがナナカマドなのか!?、私にはわからない。




本当は人間も、同じように春の訪れを待ち、暖かさや水分を感じて行動を開始したのだと思う。スーパーに行けば少量に在りつける便利な世の中が当然なのだけれど、どこからか辿り着いたインフルで鳥が多量感染し処分された事で「卵」が無い!事を思えば、利便や営利を追求した先にも順位が存在する事を思い知る。

生活の基盤は揺るがず、今の環境に置いて間違いのない選択の出来る事、これは人工的に作られた札幌の中島公園の中でも揺るぎがない。10℃は違う氷河期を平然と乗り越え今に至る彼等の逞しさは揺ぎ無く学ぶべきばかり。

果たして、これは『ナナカマド』で良いのか?誰かが教えてくれなければ、私は「ナナカマド」と呼び楽しむのだと思う。そして、このナナカマド?は人間がどう分類し理解しようともお構いなく、次の春に備えるのだろうな。