『昨日の名残 明日の気配』 札幌芸術の森美術館 (1/28~3/12)

気付けば随分と久しぶりの芸森、雪中の今にとても良い印象の展示だった。

強いメッセージや主張、社会性或いは到達した世界をというのでなく、今現在に取り組まれている作家自身の探求を、可愛らしかったり、面白かったり、来訪者と呼応する親しみの良い、8人の方々による展示だった。

会場は混みあう事はなく老若男女が楽しめる内容、子供なら歓喜しそう。お勧めの機会です。珍しく?展示スタッフはとても親切で、そっと少しだけ解説をしてくれるだけでなく、質問をすればあれこれを応えて頂けるだけ十分に知識をお持ちで、会場構成の際の作家の言葉すら伝えて下さった。私が面白くて3周程したのだけれど、ケタケタ笑いながら話して下さる方もあり愉快。指南役としても親身に寄り添って下さるので、より楽しめるのではと思います。

撮影OKの展示、久しぶりにカメラを構えたので一覧にする。


■熊谷文秀

ようやく観る事が出来た。会場の最初に迎えてくれるコレ、人生をパラパラ漫画を影絵で見せる。3つめの穴の人は走っていて、最後に転ぶ。何が展示されているのか?と身構える来訪者を笑い?で迎えてくれる。可愛らしい。


可愛らしい、事は「芸術作品」として迎合的で相応しくは無いようにも思う。ただ、動く彼の作品は実際に見る人を驚かせたり喜ばせたりする。そこは現代的でエンターテイメントとして出来ているように思われ、つい、付き合わされてしまう。これは時間毎に様々なパフォーマンスをする、双葉の成長のような動作が披露され、開いた瞬間を撮ろうと付き合わされてしまった。いつ開くか微妙で何枚も撮ってしまい、撮れた。

序盤で内容を悟り夢中にさせられてしまう。


『DIALOG MACHINE 2』は暗く閉ざされた展示スペースにモーター音を響かせ、アルファベットを穿った16のリングが不定期に動作し一文を作る装置。示される文字に強い意味があるとは思わない。それを生み出す機構も怪奇ではなくプログラムされたもの、ただ、その装置から放たれる光、陰影とモーター音で包まれる空間はあまりに素敵だった。


HAPPYと出て来れば、そうかなーと思う。


文字表示のために16のアルファベットのリング裏に照明があり、その反対の裏側にも組み込まれた照明が間接的に室内を照らす。リングが動く度に室内が変化する。



これも熊谷さんの作品で、4つの羽が回転しながら仰ぐ。


展示スタッフによると、男性受けが良いらしい。わかる。ちなみに女性は素通りらしい。

■中島洋


展示内容を把握していない。実物の蛇口のコレクション多数で、幕にはビデオが投射されている。強く印象に残る空間だったと思う。蛇口しかないのに。
映像は長い配管上に繋がれた蛇口が林立する森?室内を対角に閉ざした裏手にあり出会う。大きな空間が蛇口だけで埋められていた。


■半谷学


忘れ物傘が吊り下げられている。傘部分には造花、これは古い緞帳のロープを解いて繊維にし作られ咲かせたものらしい。テグスで天井から吊り下げられた傘柄+造花は空調で僅かに揺らぐ。触らずなら間を歩いて良いとお聞きし、勇気をもって触れぬ様に合間を縫って歩き、振り向くと、自分が動いた事で揺らいだ空気を感じて次々と、僅かに回転を始め、自分の軌跡を追随してくる。


傘の柄に、何かしら番号があったりした。忘れ物で捨て去れた傘だけれど、実は見覚えのある傘が!という人もあるのかもしれない。それが今は宙に舞い、花を咲かせて人を迎えている。


■渡辺行夫


イタドリを材料に取り組んだ作品多数。イタドリとは?設計の際に野生的な敷地なら必ず出会う野草で、春には何も無いのに初夏には人の竹を超える難敵だ。

まったく厄介な植物で群生もする。一つ一つは軽く何とかなるものの、群生されると1m先へ進むのに苦労し、数十分も格闘して、少しも敷地に踏み入れられずに諦めさせられるのがイタドリだ。成長が速いのは周囲の木々が葉を広げ覆うより前に来年を見越すからなのだろう。中空の構造はフキににて、外皮は堅いので高く聳えるものの軽量で折れ易い。

そのイタドリを粉砕して樹脂に混ぜて造形したり、割った破片を積み重ねてみたりと拘ったらしい。誰しもが一度は出会った事があるだろう雑草、これを「素材」として取り組まれているらしく、写真のものはとても興味深かった。

中空の幹の先端の丸を中心に据えて木端の小口が綺麗な面を成し、一つの造形となっていた。気が遠くなる!!!


樹脂を混ぜ練り上げた巨大な造形物は指のように絡まり伸び、それがやはり中空となっていて、会場の中に優しく囲われた筒状の内部を持っていた。

その先にあるのは北川陽稔さんの作品郡。
別の作家さんが隣り合う展示ながら、イタドリからの以降は円滑で心地良く、展示スタッフにお聞きすると、北川さんもそう思われていたのだそうだ。


■北川陽稔
特殊なカメラで撮影された森の写真群は、そこらに在る森の別の姿を映していて、その先に在るインスタレーションは、人が近寄ると関知するセンサーにより、造形物として作られた金属の幹?に感覚が映し出される。つまり、私が近寄るとザワザワとした細かな映像から始め、様々に変化する。

最近観たテレビによると、植物は騒々しい程にコミュニケーションをしているのだそうだ。害虫が葉を蝕めば、その天敵となる昆虫を呼ぶ。周囲へは注意喚起もするらしい。何かしらのフェロモンを発し、自身は外敵に対抗して毒を発生したり養分を移動したりもしているとか。

そこらの野鳥が種を越えて会話しているというテレビ番組もあった。主語述語の配列は確かで会話が成立している可能性があるらしい。エサが有る!や天敵が来た!を伝えているのだそうだ。

人は、その会話に参加出来ず、今になってようやく可能性に気付いたのかもしれない。もちろん、勘違いかもしれない。けれど、既存の知識では答えられない彼等の現象も事実のようで、つまり、この作品のように人の行動に応じる装置があっても不思議はなく、それは彼等の都合でザワザワとする事が当然なのかもしれない。



感じた事は、早く記すに尽きる。時間を置いてからの方が適切に書けるとは思うのだけれど忘れてしまう事は多く失ってしまう。まぁ、日記なので宜しい。


■雑感
訪ねて楽しめたのは、展示スタッフにあると思う。10年程前はメモ程度で筆記具を取り出すと、即座に展示スタッフが詰め寄り注意される具合で居心地の悪い経験をした芸術の森の美術館は好きではなかった。

スペインはあのプラド美術館にて、グレコの絵の前で油絵具を持ち込み模写されていた光景を思い出す。流石に「これは良いのか?」と言いたくなる距離感だった。邪魔だったし。シュットガルトの近代美術館でジャコメッティの絵を観て驚き思い切り近寄った際は、流石に注意されたけれど。

海外の美術館ではスケッチはOKだ。写真もフラッシュはご法度だけれど撮影は当然OKだ。私自身はたぶん、数百枚をスケッチしている。多くはないけれど、美術館でそう過ごす人は少なくはなく、どこででも見受けられる。芸術や美術にどう接するか?差を実感させられた経験がある。幼少より親しみ楽しみ、触れて良いのかどうかの節度を学ぶ機会にも違いないと思う。不可侵の領域にしてしまうと離れるばかり、じっくり観察するのは自由、楽しみを探して!という具合なら、より望ましい勉強の場になるに違いない。

今回は、展示スタッフに本当に助けられた。展示スタッフは入れ替わりな上にマスク越し、何方かは判別が出来ないものの、2周目か3周目に気付いて下さった方は更に知識を知らせてくれて、理解を助けて頂いた。より楽しむための助けとしての存在なら歓迎すべきでお願いしてしまう。