美術館

東京なら毎週通っても常に特別展がどこかで開かれている美術館がある。学生の頃?に行ったとある美術館のロートレック展は歩き疲れる程の広さに密実に展示があった。私設の美術館からして、札幌の近代美術館や芸術の森美術館を超える規模であったりする。ちなみに博物館にしても、巨大に思えた開拓記念館(現北海道博物館)が2,3の展示コーナーかなと思える程の規模が国立博物館だろうか。

初めてヨーロッパを旅した際は建築見聞を主に据えていた。目的の建築へは公共交通機関が徒歩が基本、街歩きは随分と鍛えられた。同時に美術館巡りも必須となる。どの街にも適当な都市なら近代美術館や博物館があり、古典の美術館やギャラリーがあったりする。

「美術」或いは「芸術作品」は貴重な財産であり、真摯に向き合うべきには違いないのだけれど、その接し方には驚かされた。


本当に驚かされたのはスペインはマドリッドにある有名なプラド美術館、コレクションのグレコの小さな絵だった。B4サイズより小さかったと思うのだけれど、その絵の前に陣取った方が居た。イーゼルを持ち込みキャンバスを据え、油絵具で模写をされていた。

・・・そんな事があって、良いのだろうか。


当然の事ながら美術館でも写真はOKだ。フラッシュ等絵画を痛める行為は厳禁として、フラッシュ無しならモナリザも写す事が出来る。モナリザのあるパリのルーブル美術館ミロのビーナスなんかは人だかりで写せもしなかったけれど、エントランス正面にあるサモトラケのニケは写したし沢山のスケッチを描いた。


圧倒的な存在感のニケが迎えてくれるルーブル美術館はやはり特別に思えた。三日通いいつもここでスケッチを描いてしまい、先へ進めずに苦労をした。一度はフランスのテレビ局の取材があり、その場で描いてる私はインタヴューを受けたりもした。拙い英語で応答したので放送されたのかは分からないけれど。


当時は使っていたのがフィルムの一眼レフカメラ、購入出来るフィルムは安価なイルフォードの白黒フィルムばかり。知人に見せると、イルフォードの白黒フィルムとは凝ってますね!と褒められたのだけれど・・・一番安いフィルムだったからとは言えなかった。

これは有名なパリのオルセー美術館ドガの踊り子だ。実体があるとは思いもよらず、その迫真の、言葉を選ばずに記せば気の違った人の作品に思われた。それが語り継がれる芸術に至るのだから究極の、に違いない。

美術館では写真が撮れる。けれど、うす暗い空間でもあり、手振れ補正や高感度に強いわけでもないカメラとフィルムでは限界がある。

美術館へはスケッチブック持参が習慣となる。まぁ、恥ずかしいのでなかなか描けない現実はあるけれど。




ロマン派のターナーはイギリスの有名な画家、ロンドンはテートギャラリーにコレクションが多数あり、スケッチをして過ごした。ターナーは思い入れのある画家で、実は高校の修学旅行で京都に行った際に訪ねた近代美術館で初めて観ている。

素描があって、それが実に緻密な教会で、「どこまで細部を描いているのだろう?」と、真近に迫って注意された事があった。初めて美術館で指摘を受けた経験であった。


2度目に美術館のスタッフに注されたのがドイツはシュトットガルトの近代美術館でジャコメッティーの絵を観ていた時の事だった。妙な恰好をしていたからかもしれない。私は節度を持って寄ったつもりだったのだけれど、そのスタッフは危険と判断したらしい。私は、「私の何に問題があったのだ?害するつもりはなく良く観たい。邪魔をするな!」と、拙い英語で抗議した。相手はドイツ語、何を言われているのか分からんのにね。

ジャコメッティはこの彫刻が有名で、初めて見たのはデンマークコペンハーゲン近郊のルイジアナ美術館でであった。「コレに会いたかったでしょ?」という特別に設えられた空間で出会う。後にチューリッヒの美術館で堪能するのだけれど、手の跡の残る彫刻はどう描けば良いのか分からず、想いのまま描くのがとても気持ち良かった。自分の線がとても適当で、好きなスケッチでもある。

ジャコメッティの絵画は細い線を幾重に重ねた狂気の作画で、その線を追いたく近寄ってしまったのだと思う。注意されたスタッフは猛烈な意味不明な抗議に圧されつつも、私は作品を守った!と堂々とされていたな。


三度目に美術館で注意されたのが芸術の森でだった。小さなメモ帳とペンを取り出しただけで。グレコの絵の前で油絵具で模写する人が居たり、スケッチは勿論、写真撮影もOKの世の中なのに、日本では駄目なんだ?という実感は「美術」との距離を強く感じる出来事だった。それ以来、芸術の森はあまり好きではなかったのだけれど・・・

先日の訪問では館内スタッフの方が率先して語り掛ける具合で楽しかった。音声ガイドなり、今は便利なツールはあるけれど、やはり、人が説明して下さるのは心に良く響く。知識として知るだけでなく、「楽しみ」を実感する事が出来る。美術館が率先してその機会を作るのなら、極めて有意義に違いない。木目細かいサービスという意味でなら日本は特に素晴らしいかもしれない。混みあえば難しいかもしれないけれど、とても良い事に思えた。


また行こう!っと楽しみに感じている。


久しぶりの美術館、正しく展示が成されていて感心させられた。思えば小さな美術館ではあるけれど、気持ちを邪魔する余計を徹底して除き、今回は暗がりを要する展示も多く暗幕で仕切られるのだけれど、動線は間違いなく各スペースは正しく作られていた。

丁寧な作業を実感出来たのは、昨年夏にギャラリー展を、このお正月明けにチカホで展示を作った経験があったからだと思う。相応しい空間を創る事、これは極めて難しい。間違えば気に障る余計が残り邪魔をしてしまう。想像をしても実現するには実際、ハードルは高い。

一度苦労をしているので、美術館の施設や展示の見事さは流石だと実感する。小さなギャラリー空間で労した一枚。

 


チカホで労した展示空間。

期せずして挑んだ展示は百年記念塔のもの、但し展示は私が意図したか制作したものに限る。写真を飾れば良い程度が求められたのだけれど全てを拒否して勝手に設えたのだから、間違いなく挑戦だった。気に障るものを全て除くのは実際には難しい。けれど、挑む事は大切で、先ずは何を魅せるか?確かにする必要がある。意図を伝える事が出来れば、チカホの様な万人が行き交う環境でも人を引き寄せる事が出来る。伝えたい思いを感じて下さる方がある。

現代風に綺麗に設えた空間なら、ある程度決め打ち出来るかもしれない。そうではなく、「何を伝えたか?」を適切に求めるなら響く空間は可能かもしれない。

様々、思う事を記してみた。