【 日常 】・・・【夜行列車:1959・ポーランド・イェジー・カヴァレロヴィチ】

ここは私の日記のようであり、建築には直接関係のないことばかり綴っている。書き出すのは大抵は夜の事、一杯初めて落ち着いてからの方が多く、正直、酔っているし、気取っているし、グダグダではあるが。

【 日常 】

先週は久しぶりの帰省に合わせ道東で設計した建築を巡って来た。正確には建築を巡る序に帰省したと言うのが正しい。他にも幾つか重要時はあり、それを忘れぬ内に書こうと思いつつ、殆ど書けてはいない。撮り過ぎた写真の整理が追い付かない状況もある。

夜は毎地に訪れる。電話は鳴らずメールも止む。友人とのメッセージは増えるけれど毎日と言う事はなく静かに過ごす。

過ごす?
どう過ごすだろう?
何もせずに過ごす事はない。

決まったルーティーンは夜に煎り深い珈琲を頂くのが習慣となって久しい。しばしば濃すぎて眠れなくなりそうと人には言われるのだけれど、それは先入観で実は、煎り深く焼かれた豆にはカフェイン残らずらしい。浅く煎られたお茶の方が眠れなくなるそうです。

珈琲の後にはお酒を頂くだろうか。頂きながら何をしているだろう?夜に宿題を残していない時のお気に入りは、思いのまま空想の設計をして過ごす。考えるだけで大抵はカタチにはならないものの、時々、その後のヒントとなるデザインの生まれる事もある。昔からとても貴重な時間だ。創作の時間であり、この春にはカエデの葉のデザイン探求やカツラの枝葉の3Dモデルを製作したりもした。勢い余ってパースまで製作した事例は紹介済みだ。

珈琲を頂く時、それは私には合図になる。珈琲を持ってデスクに座り、何かを始める。始める際には・・・安易に今はサブモニターでネット配信のドラマなど見始めてしまう事もある。あまり宜しくはないなーとは思いつつ。音楽を流す時は、何かを始めようとする気分の時だろう。何を流すかは悩む。気分次第だ。

ロックの、ややクラシカルなのを流す時は定番でもあり、それが最も多いかもしれない。お酒が進む夜ならJAZZかもしれない。聞くのモードばかりなので没頭しがちになる。時々はクラシックも聞くのだけれど、それは夢中になってしまうかもしれない。

ドラマ?は観る。けれど推理ものは面倒、奇想天外も手間、作為的な物語は気に触れるので好まない。ふと観ればドラマが続いていて、忘れても続いて、何時見始めても、何時見を得ていても不足のないものがイイ。

実は本当は寅さんでもいいのだけれど、それは既知で何度も観ているからで、それでも見れば新鮮な映像がある。テレビドラマなら学生時代に楽しんだ「やっぱり猫が好き」は懐かしい。その流れで言えば、この春に終えた「タモリ倶楽部」や、道民の愛する「水曜どうでしょう」も好みだ。活動時間帯には観ないだろうけれど。

日記としても記して置きたい事がたくさんあるのに僅かにしか記せずの夜、何とかと思えば既に深夜・・・横目にしつつはポーランドの古い映画、「夜行列車」。久しぶりに観るけれど、既に何度も観ている映画だ。もちろん観たくて観る時は膝を正すのだけれど、今は都合良くBGMに使う失礼もたまにしてしまう。

学生の頃、製図室から戻り体は休息を欲するのに緊張は抜けずの夜更け、当時はテレビで字幕の映画が放送されていて出会う事が出来た。誰がどうして、この映画を選んで放送したのだろう?理由を聞いてみたい。

もちろんながら、この映画の中では様々なドラマが生じる。殺人事件の犯人が、不倫?恋愛、退屈なマダムに退屈なおじさんに元気な若者に勘違いのお節介な車掌さんに・・・にも関わらず、ただの日常にしてしまう。自分にとっては生まれて初めて、それを核心にしてしまう映画だった。

日常で得るニュースの果ては戦争にテロと、届く映像はセンセーショナルで穏やかではいられない。ドラマでは済まない想像を超える受け入れ難い現実が突き付けられ、興味をそそるゴシップに溢れ、唯の日常を忘れてしまいそうになるものの、静かな夜には間違いなく日常がある。予定のない休日も似ているだろうか。

カヴァレロヴィチの映画を観るのが「日常」とは思わないけれど、夜毎にこの映画に出会えるにも十分な空間の設計をと思う。例えばゴミ一つチリ少々を許容はしても、そちらに傾いて引きずられゴミは増えチリは積もるかもしれない。常に飾られたような気取った空間ではそもそも窮屈で落ち着かないけれど、凛として映画を眺めるような夜にも堪えるのに日常を心許して過ごせる空間をと思う。


・・・と、逃避してしまったか?書き記して置かなければと思う多々を放り出してしまった、夜。