【 縄文探検 2019 】今回は石狩低地から平取りへ。 19.05.14 写真追加

ふと縄文に興味を覚えあれこれ見るようになり久しい。何時からか友人知人等と時々、『縄文探検』と称して冒険をしている・・・ただのドライブと言われそうだけれど。

 

2016年の探検では小樽-余市方面を巡った。札幌の北西、日本海側は続縄文時代の遺跡であるフゴッペ洞窟や縄文後期の環状列石=ストーンサークル等が点在する面白い地域。余市博物館で眺める展示物も大変に面白く、番屋や蔵など歴史的重要物もあって充実した探検であった。食べ物も美味しいですし。

 

2018年の探検では噴火湾に面する洞爺、有珠、伊達、室蘭を巡っている。ここは気候風土が穏やかで温暖、今も変わらず安住な環境がある。時々、駒ケ岳や有珠山の噴火で破壊的なダメージは加わるものの出土する遺物は極めて上品で不思議なものも多い。例えば北海道には居ないイノシシの牙を加工した飾りものは一体誰がどうして手にして今に伝わるのだろうか?有珠の善光寺、バチュラー教会のように開拓期から地域を様々に支えた存在も良好に眺める事が出来るし、室蘭の景勝地もまた素晴らしい。この時は最後にトッカリショを降りて白い浜辺で冒険終了であった。


個々には訪ねた事のある場所も、海や山、空を共有する狭い地域を総括して眺めると感じるものも多く、文化文明の継承、地域性が見えてくる様に思う。

と言う事で、2019年の探検では石狩低地を巡る事とした。

『キウス周堤墓群』 

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ここはやはり凄い。この迫力に勝る今も見る事の出来る遺跡は他に類をみないと思う。3m土を掘り2m盛った5mの土手に囲まれた円形の巨大な穴。誰が何の為に誰とどのように行った土木工事なのか?今は誰も知らない。石と木の道具しかなかった頃に原生林の巨木を何本も切り根を抜き、そこから掘って掘って堀りすすみ土を積み上げ底面を水平に均してしまった。高い土木技術なしでは不可能だと思われる。居住地からは離れているらしく、墓ではあるものの、何故に旅客機が納まる規模の穴が必要だったのだろう?余ほどの余裕があったのかな?どれだけのエネルギーを費やしたのか?は訪ねるとヒシヒシと伝わる。穴底に立つと周囲を5mの壁で囲われ、森の中でポツンと一人になれる不思議な空間。写真の右側土手の上に人が居ます。比較すると大きさがわかるかな?

 

『美々貝塚 今は随分内陸にある。千歳空港から程近い高台にあるこの遺跡、今は跡地で簡単な施設のみがある。どうしてこの内陸の丘の上に貝塚が?が大きな問いになる。今よりも気温が数度高かった縄文時代、温暖な気候は局地の氷も溶かし海は今よりもずっと高く(縄文海進と言う)、この石狩低地は当時は海だった証になる。1万年程度前の旧石器時代は逆に今よりも寒く、海の水は氷として蓄えられ海抜は低かったらしい。その当時の貝塚があるとすれば、今は海の底になるのだろう。

ウトナイ湖

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石狩低地の湿地帯は当時の海の名残なのだろう。この地域は樽前山の噴火でも埋まったらしい・・・たしか。樽前の噴出物は大量で何度も噴火をしている。美々貝塚の柱状土質標本を見れば上方にはその堆積物が確認できる。広く厚く低地に積もり海を湿地、低地へと変質させたようだ。美々川のあの緩い流れは高低差のない低地故のもの、千歳空港の巨大な平坦な敷地もそのおかげなのだろう・・・今日は、鳥はもう居なかったけれど。


『苫小牧博物館』ここは地方にあっても都市の博物館、資料は充実していて展示も宜しく実に面白い。縄文の遺跡からは土偶も出ているし、漆塗りの櫛や装飾品も多数ある。土器も一通り揃っていて総括できてしまう。アイヌ期を経て開拓期の移住者の多数の物語、鹿の缶詰などを経て現代まで続く博物が出来る。室蘭を挟んで太平洋側、比較的新しく開拓、開発された地域であるように思われるのだけれど、実は様々な物語のあった事を知る。樽前の噴火で埋もれ発掘されたアイヌの小船は壮観。

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この日は発掘報告の特別展が催されていて、そこで見つけた注口土器が素晴らしかった。文様は美々遺跡で出土した動物型土製品「びびちゃん」に似ている。これが特別に大きい。トンでもなく大きくて、おそらく持って何かに注ぐ事は出来ないだろう。それにしても立派。何に使ったのだろう?


『ミール』

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なんと、本物の宇宙ステーションの1ユニットがある。これはびっくりであった。本物の宇宙の代物が目の前に!!打ち上げ時にバックアップとして制作された予備の機体らしい。実際に宇宙に行った方は既に老朽化により廃棄、大気圏に落として燃えてしまっている。今も見る事の出来るソユーズはここだけ。不要となった際に売り出され、それをバブル期の日本の企業が購入し、苫小牧市に寄贈されたのだそうだ。1980年代の製作物、本当にこれで宇宙に行けるのか?各所不安も感じるけれど、これが宇宙に漂いそこで人が数ヶ月も生活していたかと思うと、正直、物凄く楽しい。無重力では床、壁という概念がない。重力に縛られる我々は一方しか使えないものの、無重力では6面を使える可能性も実感した。床に立てばリビング、こっちの壁に立てばダイニング、こっちの壁はキッチンで天井は寝室、なんていう家も宇宙でなら考えられるのかもしれない。


『静川遺跡』

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博物館の展示で詳細が案内され現地を見学する事が出来る。写真で見る遺構は埋められ今は丸裸の丘。石狩低地は縄文の頃は海の底。苫小牧の東の外れに位置するこの丘は当時、海に突き出た岬だったらしい。印象的なコの字の丘で、平坦に広がる石狩低地を見下ろせる場所で、現地に立つと遠く樽前山を眺められる良好な場所だった。コの字の窪みは当時はきっと港だったに違いない。または子供達の遊びかな。木々があれば防風林となり、選んでここに人は住んだのだろうと素直に思えた。環状の堀が巡らされていたらしい。堀は幅が2~3mあり深さは1~1.8mとかなり本格的なものだったそうだ。堀のある居住地はこれまで聞いた事がない。一体なんのための堀だったのだろうか?戦国時代にならあるのかもしれないけれど、単に鹿が多すぎて食べ物を荒らすからのものか、熊除けか・・・でも、他の地域では見たことないしここだけにあるのは何故だろう?

『二風谷アイヌ文化博物館』

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ここの展示はとても好きだ。白老の博物館は実に怪しく観光施設の一部に過ぎなかったけれど、平取の施設は丁寧で詳細、ここを整理した人の誠意や誠実さを感じてしまう。特に気に入っている遺物に「おしゃぶり」「こどものおもちゃ」がある。人が住んでいた以上、かならずおもちゃの類はあったはずなのだ。木製のそれらはアイヌ期のものなので今も残っているけれど、縄文の頃のものは朽ちてなくなってしまっているのだろう。自分の生活に近しいものを見つけてしまうと急に現実的な想像が出来てしまう。きっと、もっと色々なものがあったのだろうなと思う。

縄文の頃の遺物にミニチュア土器と評されるものがある。おちょこ的な器は用途も見えてくるのだけれど、実用には耐えないものも多い。それらは、余った土で作った習作か、子供の練習か、ひょっとして実は「おままごと」の道具ではないかと思いたいし。

再現されたチセが点在していて、各チセで刺繍や彫刻の実演がされている。あるチセでは織の実演があった。葦を使った簾、石を錘に使われていた。それが妙に気になり様々を聞かせて頂いた。葦やガマという水草、昔はそこらにあったのそうだ。今はないけれど。使っている石は川辺で拾ってきたものらしい。ガマはすこし太目の強い草、これは敷物になる。ここで発見したのは糸。繊維から作られる糸はどうして得ていたのか?これはオヒョウとうそこらにある樹木の樹皮を10日間水に付けてから煮て柔らかくし、繊維状になるまで引き裂き、それを拠って糸にするのだそうだ。これを使って衣服にしたものがアットゥシというもの、糸を使えばガマを編みこみ敷物に出来、葦を束ね、時に簾にする事も出来る。罠に使う道具になるし、針を気の棒に固定すれば銛にもなる。今日感じた一番の発見、この『糸』。糸は人類が手にした利器の中でも『火』に次ぐ重要な利器だったのではないか?と思う。

『びらとり温泉ゆから』いい湯でした。建物は新しくなっていて、お湯は良く、今日はここで日没終了。一日、有意義でした。