弾ける

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先日書いた記事の末尾に載せた、お隣さんの栗の木、
頂上にある栗がとうとう割れた。ぶくぶくと膨らみ、
最後に弾けた!と言う風に見える。
枝葉の間に見え隠れしたのはヒヨドリだろうか。

栗の実は種なのだろうか?植えたら木になる?
桃クリ3年で木になるのだろうか。
自生している印象に乏しい木だと思う。
若い栗の木が生い茂る風景に出会った事がない。
西岡水源池のような自然が残される場所では、
そういえば見かけた事がない。
人が持ち込んだと言われ合点が行く、気がする。


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先日の本は、先ずは付箋を貼りまくられた。
いつ開いても綺麗に眺められるよう大切に
保管をするのだけれど、付箋は思い切り貼る。
次は付箋の項をメインに開く、と言う事も
ないのだけれど、何に興味を抱いたのか、
何故これに付箋を貼ったのか?、
どうして、この項に貼らななかったのか?
自分を試しつつ見返す事になる。
貼り直したり、剥がしたりしつつ、やがては
自分の本として馴染んで行くように思う。

色や大きさ、貼る場所で別け始めたりするし、
住宅系ならコレというものもある。
何度も眺める本は実は、付箋が無かった。
稀にそういう特別な本もある。いつ開いても
何処に何があるのかを体が覚えている。
これは「本」で在る事の最大のメリットだ。

本棚のあの場所にある、このくらいの厚さで、
重さの本の中ほどの右手の・・・と覚えている。

飾られたままの本もあるけれど、それは本望
ではない。使われている本にすべくと思う。