映画監督

テレビでは主に週末の深夜にドキュメンタリー番組が放送されている。NHKでは海外の放送も含めて様々あるのだけれど、民放でも多々、時に気持ちの良い番組がある。撮る人、製作する人の意気込みや想い、興味を伝える番組に出会えた時は特別に嬉しい。

観たドキュメンタリー番組を思いついて2018年から記録していたのだけれど、250を超えた2020年に止めてしまった。キリがないし。その中で印象に残ったのが北海道の鶴の番組だった。

2020年 6月13日 「タンチョウふたたび」
2020年10月24日 「たづ鳴きの里」タンチョウ呼ぶ農家の奇跡の物語
         ※文化庁芸術祭参加作品
総集編かな?は2023年初めにも放送されている。

石狩川の治水対策として計画された千歳川放水路、長沼町のある農家達の取り組みは興味深い。過疎地で跡取り困る小さな町の学校の校章には「鶴」、後世に何を残すのか、残せるのか?を真剣に悩み決め実行するまでの物語は壮大で、それがテレビで眺められるのだから得した気分だ。

得というのか・・・つまりは週末日曜の深夜、元気な番組でなく深刻過ぎず、夢や希望を抱いて静かに挑む番組は丁度良く心に染みる・・・まぁ、ぐだっと寝転んで観せて頂いたわけですが。


難しい事を書いていると思うでしょ?実はそうではなく、ただただ面白いだけの事。だって、嘗ては当たり前に居た、地名のみならず校章にまで描かれた鶴が戻って来るまでの物語が面白くないわけがない。そこに至るまでの労や苦悩は物語をより深めてくれる上に、それでも目的を決め諦めずに歩む様が印象に残らない分けがない。





先日はトークライブに参加した。放送された長沼町の鶴は映画となり、札幌ではシアターキノで上映が始まった。その映画を撮られた監督を含む自然についてのトークだった。

監督は実は以前から知る方で、飲むと実に楽しい人。写真ではお洒落で気取った人に見えるかもしれませんが、終始、冗談交じりで「本気」がどこにあるのかを問いただすのが難しい楽しい方です。

ドキュメンタリー番組製作もされる方で、その発端は先ずは好奇心からだったらしい。鶴と聞けばカッコ良いけれど、現実には唯の野鳥だ。しかも食物連鎖では比較的頂点に君臨する大きな動物でもある。例えば白鳥はより身近に観る事が出来る大きな野鳥、水に浮いていれば綺麗な鳥で見難いアヒルの子が憧れるのは分かる。けれど食事は近場の畑で泥だらけになって餌を漁っていたりする。鶴もしかりで漁るので、農家にとっては害鳥に違いない。あの大きさで食欲旺盛、人が近寄っても逃げないだけ強い生物もある。

どうして農家が鶴を呼び戻そうと考えたのか?後世に自分達が残すべき環境とは何か?何が出来るのか?夢と現実の葛藤、取り組みの困難さは地域の団結のみならず、既に去った連鎖の頂点に立つ生物=鶴を呼び戻すという自然相手の難しさ。

北海道で鶴といえば釧路や湿原を背景にイメージされる。現実には道東太平洋側へ行けばチラホラとは出会え、多くは畑で餌を漁っていたりする。所謂渡り鳥の野鳥だ。それが長沼町では今、田んぼを背景に飛ぶ光景が出来つつある。

訪ねようかな?とは思うものの未だ行った事はない。興味本位で訪ね、生まれたばかりの彼等の環境をじゃましたくはない。ただ、近くを走った際に飛ぶ姿を眺められたら特別な想いがするだろう。


現実は、餌を撒けば居付く個体も出てくるのだそうだ。鶴居の鶴もそういう習慣があるらしい。完全なる野生の中で住まう鶴、それを望むには今の北海道では極めて厳しいのかもしれない。種を残すだけの数を担えるだけ十分に大きな環境を人が残せるかは実に疑わしく、今は気付けば環境配慮の名目でソーラーパネルが埋め尽くして居たりするだろう。

人が住まう事はそこそこ、間違いの無い罪なのだと思う。春熊駆除が禁止されて以来、野生の熊は数を増しているものの、その生息域は限られ、人里近くに追いやられた熊は近年、しばしば人と遭遇し事件となる。開拓入植時は人が自然のテリトリーに入り込んでいた。今は人のテリトリーに自然が接し緊張感をもたらしている。例えば人の作った作物の味を知った熊は、それを求めるのは間違いない。森でドングリを食べるよりも遥かに美味しい農作物、どうぞと差し出されたかの様な酪農動物、人が節度を失いテリトリーを奪えば衝突は不可避だ。

同時に、その環境は人の差配によっては容易に壊す事も出来てしまう。一度壊してしまえば戻すのは極めて難しくなる。実際、人にとって最も驚異だったのは熊ではなくオオカミだったはずだ。エゾオオカミは超大型犬サイズで大きさ比は、ヒグマ:ツキノワグマエゾオオカミ:二ホンオオカミ、程の体格差があるようだ。北大植物園には2体のエゾオオカミの標本があるのだけれど、一体が相手でも人は負けるな、と恐怖を覚えます。

では、どう接し守り楽しみ、共存するのか?ココ北海道で野生の生態系を守りつつ住まうのか?その難しさはヒシヒシと実感させられる。と、想いをツラツラと書いてみた。



そもそもは何かを取り組み始めたと聞き、興味を覚え、私的に通い始めた事がドキュメンタリーへの切欠だったらしい。撮影した映像の時間を尋ねたなら、今はデータなので総時間は算出出来ていいないのだそうだけれど通った日数は総計したらしい。それは1500日に及ぶという。

報道番組の性として、全景を捉えて説明を加え短時間で案合いするのが常なのに対し、映画は「映像」で伝える必要がある。その全景に辿り着くまでの藪漕ぎシーンこそが撮るべき映像だと気が付き、映画化を諦めようかと思ったらしい。これは決定的で、同じ映像を撮る仕事でもまるで違う性質だと話されていた。

ライブトークで用意された面白い話はナレーションだった。この映画のナレーションは上白石萌音さんがされている。当初は取り組まれたおじさん達の声を代表して西田敏行さんにと考えていたらしい。ただ、鶴の声を?となり女性を!となり、例えば吉永小百合さんにとも考えたそうだ。これが実現できれば映画の質は一段上がったに違いないものの、多くの人に見て頂くには?多いに悩んだ末にプロデューサーが以前に名刺交換した事のある芸能会社を伝い上白石さんに依頼するに至ったのだそうだ。

人気者で忙しい彼女が応えてくれるかは不明だったものの、熱烈にアプローチした結果、実現できたと嬉しそうに話されていた。僅かな時間での録音ながら、当日は鶴コーディネートの服装で登場されたらしく、その上、赤い袖口を持ち上げて鳥の真似をしてくれたのだとか。

監督は、デレデレだったと告白されていました。まぁ、確実にそうだろうな。

事前に映像と台本は渡していたらしい。その中には鶴と狐のシーンでアドリブもお願いしていたと。デレデレではあったものの、一緒に写真を撮るようなファンにはならず、あくまでも監督として振舞った自負されていた。本当かどうかは分からんが。折角の機会なので、撮っておけば良かっただろうに。そこを強く攻め問い詰めたものの、最後の一線は越えずに徹したと話されていた。信じよう。

ナレーションは時間長短での撮り直しは在った様子だけれど指示の通りで希望に叶うものだった上に、無理をお願いした鶴と狐のシーンのアドリブは流石としか言いようが無かったと話されていた。撮り終えた後で映画の感想を求めた際のコメントは秀逸、あらかじめ渡していた模範解答を読まれた?という程に適切だったようで驚き感激だったそうだ。この人に依頼して良かったと心から思われた様子、そのインタヴュー映像はトークライブで流して下さったので、参加された人皆が実感したと思う。徹底して理解した上で取り組まれた「声」の出演は、この映画のもう一つのドキュメントで完成されている。

一連のお話をお聞きし、少し遅れて訪ねた私は近傍に座った事もあり、それまでは飲み会でお会いしては弄っていたこともあり、遠慮なく逐次、質問させて頂いたライブは実に楽しい時間でした。前売り券も購入したので後はに観行くのみ。



ここまでに至る道筋、成果までのお話は設計にも通じると思う。設計の場合は、その成果は「建築」だ。それが全てなのだけれど、そこに至るまでの物語をどれだけ反映出来ているかは貴重で深みを与えてくれる。竣工時に気取った写真や映像を残せれば良いなら浅くても十分なのだけれど、数十年後までを無事でいられる十分な変化への応用力、果てはそこで生死を迎えるに相応しい空間までをとも考えるら、世代を超えて持続できる建築でありたい。性能や設備は更新が出来る。更新出来ない素性をどれだけ十分に検討して求めたのか?つまりは創造物を残せるのか、残すに値するのか?

映画なら後世まで語られる映画でありたいと思う。この正月に再び観て感動した映画の一つは「今を生きる」、もう一つは「不思議惑星ギンザザ」。まるで系統は違うのだけれど、そこは何でも観る映画好きな私、前者では私は机の上に立てる一人だろうか?と自問しつつ涙したし、後者では突如の異宇宙で自分は何が出来るだろうと真剣に笑う。何れも30年程前の映画なのに、今も当然のように楽しんだ。古い映画で古臭い!とは言わせない創造性と迫力、楽しさ或いは面白さは普遍だった。

設計はそもそもがドキュメンタリーだ。それをどういう視点で眺めるのかは様々だけれど、私は出来るだけ可能な限り、クライアントと同じ目線でと常に思う。それが時を経ても色褪せず、次の世代にも通じる価値観にまで昇華させられていればと願い常に取り組んでいる。