パッツィー家の礼拝堂

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初めて訪ねた欧州では、ずーとスケッチを描いて過ごす、北はフィンランドから南下する旅であった。北海道人には眩しい過ぎる陽の光の量を前にして、それまで基本にしていたペン一本では表現できそうになく、持っていたセピアのグアッシュで描き出したのはイタリア、後にも先にもこういう絵を描いたりしていない。下手と言えばそれまでながら、何か挑んでいる感はあるし、自分の絵でもあり気にっている。としても、あまり人にはお見せしないスケッチだ。それに、これをお見せして分かる方もそう多くはない。

先日、大学の恩師にお会いした。その際にスケッチを、スマホ画面ではあるけれど、お見せする事があった。いつもなら名前順にしてお見せするところ、大嫌いなスマホお得意の製作時間順に並んでいて、つい、これが出てしまう。安易にお見せしてしまったのだけれど、後で思い出し恥ずかしくなってしまった。この建築の魅力は恩師に教えて頂いたのだから。

当然、恩師は「パッツィ家の礼拝堂だね」と即答された。ルネッサンス期の、ブルネッレスキによる建築はフィレンツェに在る。

大学での建築史の講義、講義として伝える時と、特定の建築様々を語る時とでは熱の違いがあって、この建築を語って頂いた際の熱さは特別、見た写真は白黒だったかテキストの挿絵程度であったのに特に印象に残っている。正面の壁がとても綺麗な建築だった。

ルネッサンスバロックは、見慣れぬ事もあって難解には見えるのだけれど、フィレンツェは面白かった。歴史や栄華、文化や習慣、芸術などが時間と共に封じ込まれたような時に汚い唯の壁や柱、屋根ばかりの町だった。有名な教会の横だったろうか、この時は改修工事が成されていて入る事は出来ず、塀の外から噛り付くように眺めた記憶がある。どこだろう?と探し回り、見つけた時には全ての注意力が奪われたのだった。

今は便利な時代なので、ネットで検索すれば直ぐに綺麗な写真や動画に出会えてしまうけれど、当時は挿絵程度の小さな写真から、自分の興味を確かめに行く冒険が許された。それ故に、出会えた時には自分の感じた興味か何だったのかを知る機会で、それが間違いないと理解できた時の喜びは格別だった。

建築写真は難しい。建築には「空間」がある。空間とは「空」の間だ。写真はこの「空」を写す事が出来ない。精々、床や壁、天井や屋根が写せるだけだ。それでも、時に何か「妙」な間を感じる事があり、それが興味へのヒントになる。自分が見落とさなければ、気が付ける時もある。

この礼拝堂、正面の壁が実に軽く優雅だ。コラージュされたかのようで、どこにも支えられていないかのような浮いたかのように綺麗な壁だった。石積造なのに、その重さを全く感じさせないシーンがあった。近寄り下を潜るなら重さは当然感じるのだろうけれど、しかも、名家の建築故に負っただろう名声や権威様々を担う壁だろうに軽い。

軽さ、これはとても大切なもの。ただ、軽さにも種類はあって、軽薄なものは実は多い。生活や文化、日常のあれこれを切り削いだデザインでなら作れてしまうものもある。けれど、そういう様々を内包しるるも軽快で居られるならと思う。この礼拝堂の壁、本当に軽やかだった。


私にもう少し回る気があれば、講義の返礼に訪ねた際の感想様々をお伝え出来たのに。自分で描いているので、今でもその時に感じた事は新鮮に伝える事が出来たのに。でも、期せずしてお見せ出来る機会があったのだから、それはとても嬉しい。