雪が降ったので撮る。

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雪を撮る・・・と言って、十勝の山の中に行ったわけではない。何時か、思い余って飛び出すかもしれないけれど、それは未だらしい。撮りに行ったのは、屋上である。余りに身近!けれど自分以外は踏み入らない未踏の雪原が小さく広がる。

日が昇れば瞬時に昨夜の結晶は失せて固く締まってしまう。


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随分緩んでしまった札幌の気候、それでも少し厳しく冷え込んだ上に降雪していたので、再戦する。けれど、降っているのは結晶を失った団子雪らしい。上空で「雪」が形成された際はおそらく結晶を得ていたかもしれない。それが降りてくる間に融け壊れ他と結びつくか水分を多く纏うのか、見えるのは小さな氷の団子だ。

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LEDランタンを雪下に差し入れて透かし観察して見ても、結晶の残骸すら見られない。これも自然の摂理、結晶は特別な存在なのだと思う。

札幌で観察が可能なのは12月後半から精々1月一杯なのかもしれない。夜に雪原を照らしてみても、結晶の小さな板が煌めく瞬間は無い。

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昨年末、年賀状にした写真をUPにしてみると・・・見えるだろうか?寒い日ではあった。豊平川の河川敷の雪が街灯りかコンロの火で照らされ一面がキラキラとしている。これは、結晶だ。結晶は小さくとも平面上の板、光を反射出来る。小さくとも暗がりでは「点光源」となり、人の目にもわかる。写真を撮るにはマクロレンズが必要なので、この時は用意がなかった。アトリエから雪中徒歩20分程、レンズを余計に持って行く余裕は無し。初冬の結晶は綺麗だったのだろうか?気になる。


雪の結晶の研究者なら中谷宇吉郎博士の名を聞く。十勝の山中に籠り観察されたのだそうだ。

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彼の示した分類はこれ。一つ前の投稿で見つけた結晶はP11型かP1g型になるのだろうか。その壊れ掛けか残骸ではあるものの。

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結晶実験の様も観た事がある。何か、ルールがあるのだろう。気温、湿度、風、大気の汚れ、おそらく更に微細な条件に左右され変幻自在なのだと思う。

札幌の空の下では、おそらく条件は悪く多彩には成れないのかもしれない。都市の熱、交通や暖房の廃熱や汚れ、支配的条件は多いのではないかと思う。2月前には湿潤な暖かさが漂うし観測期間が非常に短い。昨日吹いた2月1日の風は南風、強かったものの嵐と言うよりは春一番を思わせるものだった。春は近いのか。

一月初めなら、市内のスキー場でもパウダースノーを味わえる。今は既に固く締まったゲレンデだ。南斜面のFu'sなら既にガリガリだろうな。国際スキー場まで行けば3月までパウダースキーを楽しめる。手稲でも良いか。久しぶりにスキー・・・あまりに外出しない私、屋上へ行く程度が日常、太ももが弱り過ぎていておそらく、国際スキー場なら上から下まで耐えられないだろうな。



建築とは全く関係のない事も書く私のブログだけれど、全く関係が無いわけではない。話は飛び、読み難くなるに違いないけれど、私の中では繋がる。特に自然観察は私の想の根源になる。神は細部(ディテール)に宿るか、”Less is More”か、何となくそう見える程度でOKには出来ない。

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卒業設計のタイトル図面、思い入れ深い。これで行こうと決め実地調査をしたのは故郷道東の大好きな森だった。10月10日の頃の事。綺麗な紅葉の時期だった。落葉の降る場所は、地面が定かではない。人の歩く所は土が踏みしめられるけれど、落葉の濃い場所は、掘れば昨年の落葉が現れる。腐葉土ならどこか地盤か分からない。案外、自分が何の上に立っているのかがそもそも不確かだ。その不確かさは栄養でもあり次の世代を担う土壌となる。折り重なる下は腐敗分解しはじめ栄養となるのが摂理、そこに落ちた何かの種が、折り重なるものを突き抜けて芽吹く。そういう瞬間を建築で表現を試みていたのだと思う。この解釈は今、思い至る。

・・・あれ程根詰めた極限の状況で決め描き仕上げた図面は自分の想なのに、今更眺めても思う事があるとは、驚く。


雪の結晶は、これまでも観察は些細に試みる機会があった。改めて写真に撮る面白さは今覚えている。結晶は摂理そのもの、真理にすら思える。あの規則性を得られるルールがどこかにあるのだと思う。人は分類までは出来ても理解が及んだとは思われない。天から降り注ぐ水に過ぎないのに、それが今の自分達の生活を潤す糧、生命循環の根幹にも関わらず、良く分からない。何となくそれらしく見えれば良い程度の理解でも十分かもしれないけれど、何か法則性を感じてしまうと楽しくなってしまう。生活環境は実は、そういう得体の知れない楽しいものに支えられている。