2020 タイ旅日記 ⑮ 『ワット ロークモーリー』

『ワット ロークモーリー』は訪ねてみようと思っていた、旧市街城外の寺院。古くからあるだろう重厚さと田舎らしさに興味を覚えた。堀の外は実際、長閑な風景もある。郊外には大きなマンションの様な集合住宅もあるのだけれど、入り組み丘陵の山坂もあり、暇な道を覗けば満足な上下水道の無さそうな下町界隈もあった。もちろん大きな市場に賑わいはあるし、ここにある生活の一部を垣間見る事が出来たのかもしれない。

観光地なり人の集う場所は、来訪者に合わせた設えがある。例えば衛生的な観念が異なれば楽しめない。自分の生きている環境で享受する当たり前の事とは何かを考えてしまった。そんな街並みを自転車で走りながらたどり着いたお寺。

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仏塔のある寺院はチェンマイで8寺程訪ねたろうか。本堂は東側を向き、仏塔を西に配置するのを基本としている様に見えた。人は東から訪ね、西方を向いて手を合わせるのではないだろうか。このお寺は唯一南北に軸線を置いていた。日本だと、住宅では仏壇や神棚の方位は気にされる方が多いものの、お寺も神社も柔軟で寧ろ立地に適した姿を尊ぶ様に思う。タイでもおそらく基本はあるものの柔軟なのではと予想する。

実際、古く力強く、この地のお寺の姿を良く表した佇まいに見える。しかし、それにしても強い影は陽の強さを物語る。暑さに耐えるかの如くで、圧し潰されるのを耐えて伸びようとする屋根の重なり、破風の装飾。タイでお寺といえば、こういう佇まいなのだと思う。

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金装飾が抑えられると、室内は至ってシンプルに神殿風になる。側廊のある基本的室内、窓は低く周囲にあり、光は四方から強く差し込み照り返しで空間が浮かび上がる。

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中央天井は華美ではなく質素ではあるけれど、実直に造られた重厚さがあり、落ち着きのある室内だった。柱は柱脚にアヤはなく、柱頭は細長く伸びた形状。外観上は中央が高いれど、室内では内陣の天井が低く設えられ、中心となる内陣に緊張を造る構造も基本に忠実に見える。

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大小様々、ここにもあちこちに本堂或いは阿弥陀様の在る建物があった。その一つは古い建築の改修中であった。窓はアルミサッシ、インテリア工事はこれからだろうか。一気にではあるけれど多くを観た事もあり、今なら自分でも挑戦したいと思わせる伽藍洞だった。

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廃墟にロマンを感じるのは何時からか、好きだ。仏塔の古さ、修繕もままならず現存のまま佇み、それが今も活躍されている風景は興味深い。しかも、中空に張り渡された糸、何かしらの法要が用意されているらしい。吊り下げられている幕はお経ではなく、ウサギ、蛇、豚・・・動物だ。何かの感謝際なのだろうか。

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中空の糸は正面、若しくは仏塔中座の阿弥陀様の手に結ばれている。 

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人が集うだろう広場には中空の糸から所せましと幕が吊り下げられている。これが阿弥陀様の手と結ばれる。触れれば阿弥陀様と繋がる仕組みは何とも楽しい。『ワットプラシン』の法要の間に築かれていた中空の糸と同じ仕組みなのだと思う。床のタイル、四角の角に斜めに小さな四角を埋め込むのは流行りなのかルールなのか。中空に垂れる幕が模様の様に影を落としている。

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比較的綺麗に整う大きな寺院ではあるけれど、境内の外れにはこのような場所がそちこちに在った。元は何か建っていただろう跡の基壇部分、レンガ造だ。崩れ行くのを防ぐことも出来ず放置され、朽ちる現実も目の当たりにした。実際、載せただけのレンガはどう施すことも出来ない。